「や」~「わ」ではじまる義民

野間の大けやき

このページは名前の読みが「や」「ら」「わ」行ではじまる義民を紹介しています。

山口吉右衛門 江戸時代中期の阿波国名西郡高原村(今の徳島県名西郡石井町)の駈出奉公人。宝暦6年(1756)、徳島藩の藍専売強化に反対して「藍玉一揆」を計画し、未遂のまま磔刑に処され、後に「五社明神」として祀られた。 

山口与十郎 江戸時代中期の大和国十市郡八条村(今の奈良県磯城郡田原本町)庄屋。宝暦3年(1753)に幕府領の年貢減免を求めて起きた「芝村騒動」のために遠島となる。父の身を案じ渡島した孝子・庄右衛門の伝説で知られる。 

山田源次郎 江戸時代後期の駿河国駿東郡西熊堂村(今の静岡県沼津市)の名主。文化13年(1816)に沼津藩主・水野忠成に年貢減免を強訴しようとして捕らえられ、獄中で病気となり出牢後の天保11年(1840)に没した。近代に入り義民として「山田源次郎頌徳碑」が建てられた。 

山田藤右衛門 江戸時代の上総国望陀郡下新田村(今の千葉県袖ケ浦市)の里正(名主)。領主の旗本・太田八十郎に年貢増徴の撤回を訴えたため、強訴の罪で遠島に処せられたという。天明年間に彼を祀る「土神宮」が建てられた。 

山田屋大助 江戸時代後期の一揆指導者。摂津国能勢郡山田村(今の大阪府豊能郡能勢町)出身で摂津国大坂斎藤町(今の大阪市西区)に住み剣術指南をしていたが、「大塩平八郎の乱」に触発され、天保8年(1837)に米の平等支給や徳政令を掲げて「能勢騒動」を起こし敗死した。 

山本八兵衛  江戸時代中期の三河国挙母藩領飯野村(今の愛知県豊田市)の百姓。宝暦2年(1752)、挙母藩の圧政に対して多数の領民が江戸藩邸に押しかけ強訴した「芋八騒動」の頭取として翌年に処刑される。林宗寺に墓碑が残るほか、各地に刑死した関係者の供養塔や供養行事が残る。 

吉岡村市兵衛 江戸時代中期の越後国頸城郡吉岡村(今の新潟県上越市)の百姓。享保7年(1722)の流地禁止令を発端として、頸城郡内150か村で田畑を質入れした農民らが土地の取戻しを図った「頸城質地騒動」の惣代として磔刑に処せられた。ただし、実際には執行前に拷問で牢死している。 

吉田新兵衛 江戸時代後期の丹後国与謝郡石川村(今の京都府与謝郡与謝町)百姓。文政5年(1822)に起きた宮津藩文政一揆の首謀者として死罪に処せられた。京丹後市の路傍にある巨大な「平地地蔵」は供養目的で建立されたという。 

吉田長次兵衛 江戸時代中期の陸奥国磐城郡柴原村(今の福島県いわき市)の名主。磐城平藩内藤家の年貢増徴に反対して数万人が蜂起した元文一揆の頭取となり、翌年に中神谷村の佐藤武左衛門ら8名とともに死罪となる。処刑場である夏井川の鎌田河原に河原子地蔵堂が、対岸の五霊神社に元文義民之碑が建つ。 

吉松仁右衛門 江戸時代中期の石見国鹿足郡柳村(今の島根県鹿足郡津和野町)の村役人で紙漉きを生業とする。津和野藩の上納紙見取につき他村の庄屋の不正を告発するものの、かえって親子3人で打首となったという。 

涌井藤四郎 江戸時代中期の越後国蒲原郡新潟町(今の新潟県新潟市)の町人。明和5年(1768)、米価高騰下で長岡藩が賦課した御用金を巡る「新潟明和騒動」が起きた際、町中惣代として新潟町の自治を指導した。後に打首獄門となるが、同じく刑死した須藤佐次兵衛とともに「明和義人」として顕彰される。 

和田佐助 江戸時代前期の越中国砺波郡和田村(今の富山県高岡市)肝煎。もともと北陸街道沿いに新たに町立てされた場所だったが、重税で逃散が相次いだことから、隠田開発で農民の困窮を救おうとして藩に露見し、万治3年(1660)に磔刑に処されたという。地元では佐助大明神として祀る風習がある。 

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)