「な」ではじまる義民
中尾重兵衛 江戸時代初期の丹波国多紀郡二ノ坪村(今の兵庫県丹波篠山市)の庄屋。元和7年(1621)、不作の中で生木物の上納を命じた篠山藩を京都所司代に越訴し、この柿年貢は取り止めとなったが頭取として磔刑に処せられた。 ▲
中川覚右衛門 江戸時代中期の三河国碧海郡安城村東尾(今の愛知県安城市)庄屋。安永8年(1779)の干魃・洪水に際して領主の久永内記に年貢減免を嘆願するものの認められず、嘆願書とともに郷倉に入り切腹したという。これにより年貢減免や救米の給付が認められたため、安永の義民として讃えられた。 ▲
中川善兵衛 江戸時代後期の佐渡国(今の新潟県佐渡市)羽茂郡上山田村の百姓。天保9年(1838)、佐渡一国惣代として佐渡奉行の圧政を巡見使に訴え投獄されるが、これに反発した島民による「佐渡一国一揆」を引き起こした。 ▲
長崎村茂右衛門 江戸時代末期の越中国砺波郡長崎村(今の富山県南砺市)百姓・茂兵衛の倅。地震や天候不順による米価高騰に端を発し、安政5年(1858)7月に五箇山地方の農民が井波町(今の南砺市)の米屋を打ちこわした「長崎村茂右衛門騒動」の頭取として井波町観音寺で磔刑に処された。 ▲
中島助兵衛 江戸時代前期の美濃国武儀郡桐原村(今の岐阜県下呂市)百姓。万治3年(1660)、尾張藩領で代官が重税を課したため一揆が起きようとしたところ、村人を説諭して思いとどまらせ、単身江戸に出向いて尾張藩主・徳川光友に直訴した。代官は免職となり年貢も軽減されたが、助兵衛は獄死したという。 ▲
中条右近太夫 江戸時代前期の遠江国城東郡嶺田村(今の静岡県菊川市)の百姓。旱害に悩む村人のため狂人のふりをして密かに土地を測量の上で幕府に用水路新設を越訴し、寛永3年(1626)に処刑されたという。 ▲
中筋才蔵 江戸時代中期の淡路国三原郡広田宮村(今の兵庫県南あわじ市)の百姓。天明2年(1782)、縄供出や木綿専売の強化をはじめとする徳島藩の新法に抗議して「縄騒動」を起こし、山添村(同市)清左衛門とともに獄門となる。 ▲
永田隆三郎 江戸時代後期の肥後国天草郡古江村(今の熊本県天草市)庄屋。困窮百姓の救済策に当たる「百姓相続方仕法」を巡り、弘化4年(1847)に発生した「弘化の大一揆」の頭取となり、嘉永2年(1849)に処刑された。 ▲
中平善之進 江戸時代中期の土佐国高岡郡檮原(ゆすはら)村(今の高知県高岡郡檮原町)庄屋。宝暦5年(1755)、土佐藩の専売制に対抗して「津野山一揆」を起こし死罪となる。死後怨霊を恐れた藩が「お城八幡」に祀ったという。 ▲
夏梅太郎右衛門 江戸時代中期の播磨国多可郡熊野部村(今の兵庫県多可郡多可町)の庄屋。生野代官に減租を求めてたびたび直訴し火刑に処せられたと伝わる。杉原河畔の夏梅太郎右衛門終焉の地には顕彰碑が建つ。 ▲
滑甚兵衛 江戸時代中期の播磨国飾西郡古知ノ庄村滑(なめら)(今の兵庫県姫路市)の百姓。塩田利兵衛・又坂与次右衛門らとともに姫路藩領の全藩一揆「寛延一揆」を主導したとして寛延3年(1750)に処刑された。 ▲
鳴尾の義民 天正19年(1591)の「天正北郷樋事件」により刑死した犠牲者をいう。武庫川水系からの取水を巡り上流の摂津国武庫郡瓦林村と下流の鳴尾村(ともに今の兵庫県西宮市)との間で水争いの乱闘が発生、秀吉の喧嘩停止令に違反したとして鳴尾村25人、瓦林村26人が磔刑に処せられた。 ▲
新山為盛 江戸時代末期の琉球国の面縄間切犬田布村(今の鹿児島県大島郡伊仙町)の農民。砂糖横流しの嫌疑で役人から拷問を受け、地元農民150人余りが蜂起した「犬田布騒動」の発端となる。 ▲
西尾六右衛門 江戸時代前期の摂津国西成郡山口村(今の大阪府大阪市)庄屋。中島大水道の開削を幕府に訴願するも、無許可のまま工事を行い、その責を負って他の発起人とともに切腹したという伝説を残す。 ▲
西谷村又兵衛 江戸時代後期の大和国吉野郡西谷村細峠(今の奈良県吉野郡吉野町)百姓。文政元年(1818)、旗本・中坊氏の平尾代官所に強訴して代官を殺害した「竜門騒動」の発頭人として獄門を申し渡されるが、執行前に牢死した。 ▲
西原九兵衛 江戸時代後期の信濃国水内郡浅野村(今の長野県長野市)の豪農・御用商人。天保8年(1837)の飯山騒動に関連して、拷問の末に頭取と白状させられ、同10年(1839)に獄門となる。 ▲
野木久右衛門 江戸時代中期の駿河国駿東郡萩原村(今の静岡県御殿場市)の鋳掛屋。天明3年(1783)、凶作を理由に小田原藩に年貢減免を強訴した「御厨一揆」の首謀者として翌年死罪となり、後に「四相権現」として祀られた。 ▲
能美屋佐吉 江戸時代末期の加賀藩金沢城下の髪結床。安政5年(1858)、米価高騰に困窮する民衆2千人余りが金沢城至近の卯辰山に登り、城に向かい「ひもじい」と絶叫した「安政の泣き一揆」の首謀者の一味として処刑される。後に他の犠牲者とともに供養のための「七稲地蔵」が建てられた。 ▲