「ま」ではじまる義民

郡上八幡城

2024年4月1日

このページは名前の読みが「ま」行ではじまる義民を紹介しています。

正吉村牛右衛門 江戸時代中期の播磨国佐用郡正吉村(今の兵庫県佐用郡佐用町)百姓。元文4年(1739)の「勝北非人騒動」に触発され、平福宿に押し掛け酒食を無心するなどしたため、家財欠所の上死罪となった。 

増田五郎右衛門 江戸時代後期の駿河国志太郡細島村(今の静岡県島田市)庄屋。文化13年(1816)、台風被害に伴う年貢減免を求めて田中藩に直訴し、文政元年(1818)に打首となる。地元に供養のための石地蔵や頌徳碑が建てられた。 

益田時貞 江戸時代初期の一揆指導者。キリシタン大名・小西行長の遺臣で肥後国宇土郡江部村(今の熊本県宇土市)に帰農していた益田甚兵衛の子といわれる。寛永14年(1637)から翌年にかけての「島原の乱」では一揆勢の精神的支柱となったが、幕府軍に討ち取られ長崎で梟首された。 

増田与兵衛 江戸時代初期の信濃国小県郡入奈良本村(今の長野県小県郡青木村)百姓。庄屋の不正を上田藩主・仙石政明に直訴し、庄屋は処罰されたが自身も連座の子2人と夫神川原で処刑された。宝暦年間に与兵衛明神として祀られた。 

町井友之丞 江戸時代中期の伊勢国一志郡谷杣村(今の三重県津市)の庄屋。津藩による均田制などの改革に反対して起きた「安濃津地割騒動」の頭取として、多気藤七郎・森宗左衛門とともに処刑された。地元の海泉寺に辞世の句をしたためた鼻紙や大正時代の顕彰碑が残る。 

松岡新右衛門 江戸時代中期の但馬国朝来郡楽音寺村(今の兵庫県朝来市)庄屋。享保10年(1725)、生野代官所支配の村々における年貢減免や銀納値段の適正化を江戸で箱訴に及んだことから八丈島に遠島となり、島内で亡くなった。 

松岡半十郎 江戸時代末期の万延元年(1860)、福知山藩(今の京都府福知山市)の産物会所に押し入り金品を強奪して打首となったが、死後に義賊「梅ぼし半十郎観音」として祀られた。奪った金品は貧しい庶民に施したともいう。 

松田勘右衛門 江戸時代中期の因幡国八東郡東村(今の鳥取県八頭郡八頭町)百姓。元文4年(1739)に起きた鳥取藩の全藩一揆「元文一揆」の頭取として処刑された。八東川の氾濫に備え「勘右衛門土手」を築いたことでも知られる。 

松木庄左衛門 江戸時代前期の若狭国遠敷郡新道村(今の福井県三方上中郡若狭町)の庄屋。小浜藩に対して百姓惣代として年貢引下げを繰り返し訴願し、願意は叶えられたものの、承応元年(1652)に日笠河原で磔に処せられた。 

松原清介 江戸時代前期の周防国吉敷郡長野村(今の山口県山口市)にいた庄屋の子。友人・常田角左衛門とともに領主である益田織部の圧政を越訴し死罪となったが、益田氏も逼塞の処分を受けた。 

松平辰蔵 江戸時代後期の三河国賀茂郡下河内村(今の愛知県豊田市)百姓。天保7年(1836)、三河国加茂郡・額田郡で1万人以上が蜂起し米屋などの打ちこわしを行った加茂一揆の頭取となるが鎮圧され、獄門を宣告された。 

万石騒動の三義民 正徳元年(1711)、安房北条藩で年貢減免を求めて藩邸に門訴し処刑された名主3名を指す。安房北条藩は1万石の小藩で、家老に川井藤左衛門を登用して年貢増徴を行うが、百姓の反発を招いて江戸藩邸での門訴や幕府老中への駕籠訴に発展した。最終的に幕府評定所の詮議を経て、川井は死罪、藩主の屋代家は改易となった。 

三日市場村和左衛門 江戸時代後期の信濃国安曇郡沢渡村(今の長野県北安曇郡白馬村)の枝郷である三日市場村の零細百姓・市平の倅。米価高騰に端を発して文政8年12月(1826年1月)に起きた「赤蓑騒動」の頭取の1人として永牢を申し付けられ、その後牢死した。 

南山義民 享保5年(1720)以降の南山一揆の犠牲者をいう。南山御蔵入領と呼ばれた幕府直轄の南会津地方は、生産性の低い山がちの地形のため、年貢やその輸送の負担が大きかった。このため年貢減免や石代納を求めて百姓が田島代官所に強訴したが、権限がないと取り合わなかったので代表が江戸に上り直訴した。南会津一帯は会津藩の預地となり実質的に要求は実ったが、小栗山村喜四郎らが晒首となり、のち南山義民として顕彰された。 

三原定次郎 江戸時代中期の美濃国郡上郡前谷村(今の岐阜県郡上市)の百姓。財政難の郡上藩による年貢の検見取に反対して起こった「郡上一揆」において、宝暦5年(1755)に幕府老中・酒井忠寄への駕籠訴を行い、同8年(1758)に穀見野刑場で獄門となる。結果として郡上藩金森家は改易された。 

村上平兵衛 江戸時代中期の伊予国新居郡郷村(今の愛媛県新居浜市)の人。宝暦3年(1753)、西条藩の年貢増徴に反対する「西条三万石騒動」を起こして処刑され、高橋孫兵衛・高橋弥市左衛門とともに「三義民」として顕彰された。 

明和義⺠ 明和3年(1766)に大垣藩領の美濃国(今の岐阜県)池田筋・長瀬筋・小島筋の農民が城下に押し寄せ、盛枡廃止や救米の給付を認めさせた「盛枡騒動」の犠牲者をいう。この騒動では宮地村(今の揖斐郡池田町)喜平次・要助、有里村(今の本巣市)新五郎・重吉の4人が強訴の頭取として死罪に処せられた。 

森武七 甲斐国都留郡下和田村(今の山梨県大月市)百姓。本名は森治左衛門。天保7年(1836)の郡内騒動の際、犬目の兵助とともに頭取となり、徒党を組んで米穀商での押借をしようとするが統制が取れず帰村、その後の甲斐一国にわたる打ちこわしや放火を招いた。代官所に自首するも直後に牢死している。 

諸岡太左衛門 江戸中期の上総国天羽郡金谷村(今の千葉県富津市)の農民。当時は旗本の白須政雍の知行地だったところ、天明の飢饉の最中に鉈止めと称する入会山利用の禁止と増税が命じられたため、他の農民たちと大挙して江戸の白須邸で門訴を行う。結果として布告は撤回されて旧に復したものの、入牢中の天明6年(1786)に獄死。菩提寺の華蔵院に墓が営まれ、富津市史跡として指定される。 

文殊久助 江戸時代中期の山城国伏見町(今の京都府京都市)の鍛冶屋・町年寄。天明5年(1785)、町民に多額の御用金を賦課した伏見奉行・小堀政方の悪政を幕府に直訴し牢死した。この「伏見騒動」により小堀政方は改易された。 

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)