「ま」ではじまる義民

郡上八幡城
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正吉村牛右衛門 江戸時代中期の播磨国佐用郡正吉村(今の兵庫県佐用郡佐用町)百姓。元文4年(1739)の「勝北非人騒動」に触発され、平福宿に押し掛け酒食を無心するなどしたため、家財欠所の上死罪となった。 

義民牛右衛門の碑(正吉村牛右衛門と平福領一揆)
元文4年(1739)、播磨国(兵庫県)の旗本・松井氏領において、折からの不作で困窮した百姓多数が乞食姿で平福宿に押し掛け...

増田五郎右衛門 江戸時代後期の駿河国志太郡細島村(今の静岡県島田市)庄屋。文化13年(1816)、台風被害に伴う年貢減免を求めて田中藩に直訴し、文政元年(1818)に打首となる。地元に供養のための石地蔵や頌徳碑が建てられた。 

首切り地蔵(増田五郎右衛門と蓑着一揆)
文化13年(1816)、田中藩領の駿河国志太郡細島村(今の静岡県島田市)は風災で不作となり、農民たちが藤枝宿に集まり不穏...

益田時貞 江戸時代初期の一揆指導者。キリシタン大名・小西行長の遺臣で肥後国宇土郡江部村(今の熊本県宇土市)に帰農していた益田甚兵衛の子といわれる。寛永14年(1637)から翌年にかけての「島原の乱」では一揆勢の精神的支柱となったが、幕府軍に討ち取られ長崎で梟首された。 

天草四郎時貞の墓碑(益田時貞と島原の乱)
寛永14年(1637)、過酷な徴税とキリシタン迫害に耐えかねた島原・天草の民衆3万7千人が益田四郎を総大将に蜂起し、原城...

増田与兵衛 江戸時代初期の信濃国小県郡入奈良本村(今の長野県小県郡青木村)百姓。庄屋の不正を上田藩主・仙石政明に直訴し、庄屋は処罰されたが自身も連座の子2人と夫神川原で処刑された。宝暦年間に与兵衛明神として祀られた。 

与兵衛明神(増田与兵衛の越訴)
天和2年(1682)信濃国小県郡入奈良本村(今の長野県小県郡青木村)百姓・増田与兵衛は、庄屋の不正を上田藩主に直訴して処...

町井友之丞 江戸時代中期の伊勢国一志郡谷杣村(今の三重県津市)の庄屋。津藩による均田制などの改革に反対して起きた「安濃津地割騒動」の頭取として、多気藤七郎・森宗左衛門とともに処刑された。地元の海泉寺に辞世の句をしたためた鼻紙や大正時代の顕彰碑が残る。 

寛政一揆顕彰碑(町井友之丞と安濃津地割騒動)
津藩では郡奉行・茨木理兵衛の下で財政改革が進められていましたが、その一つの均田制により田畑を奪われることを恐れた伊勢国一...

松岡新右衛門 江戸時代中期の但馬国朝来郡楽音寺村(今の兵庫県朝来市)庄屋。享保10年(1725)、生野代官所支配の村々における年貢減免や銀納値段の適正化を江戸で箱訴に及んだことから八丈島に遠島となり、島内で亡くなった。 

朝来義民之碑(松岡新右衛門と享保一揆)
不作に悩む但馬国楽音寺村(今の兵庫県朝来市)では、享保9年(1724)に庄屋・松岡新右衛門が年貢減免を求めて生野代官に嘆...

松岡半十郎 江戸時代末期の万延元年(1860)、福知山藩(今の京都府福知山市)の産物会所に押し入り金品を強奪して打首となったが、死後に義賊「梅ぼし半十郎観音」として祀られた。奪った金品は貧しい庶民に施したともいう。 

梅ぼし半十郎観音(松岡半十郎と市川騒動)
万延元年(1860)、福知山藩の専売制強化に憤る義賊・松岡半十郎が産物会所を襲い、直後に大規模な百姓一揆が勃発しました。...

松田勘右衛門 江戸時代中期の因幡国八東郡東村(今の鳥取県八頭郡八頭町)百姓。元文4年(1739)に起きた鳥取藩の全藩一揆「元文一揆」の頭取として処刑された。八東川の氾濫に備え「勘右衛門土手」を築いたことでも知られる。 

東村勘右衛門碑(松田勘右衛門と鳥取藩元文一揆)
元文4年(1739)、凶作にもかかわらず請免制による厳しい年貢取立てが行われた鳥取藩領では、5万人規模の惣百姓一揆「元文...

松木庄左衛門 江戸時代前期の若狭国遠敷郡新道村(今の福井県三方上中郡若狭町)の庄屋。小浜藩に対して百姓惣代として年貢引下げを繰り返し訴願し、願意は叶えられたものの、承応元年(1652)に日笠河原で磔に処せられた。 

松木神社(松木庄左衛門と小浜藩領承応元年一揆)
小浜藩領では庄屋らが大豆年貢の引下げを繰り返し訴願するものの聞き入れられず、ついに慶安元年(1648)、若狭国遠敷郡新道...

松原清介 江戸時代前期の周防国吉敷郡長野村(今の山口県山口市)にいた庄屋の子。友人・常田角左衛門とともに領主である益田織部の圧政を越訴し死罪となったが、益田氏も逼塞の処分を受けた。 

二義少年碑(松原清介と長野村百姓一揆)
長州藩の益田氏給地となっていた周防国長野村(今の山口県山口市)は重税や課役に苦しみ、代官に訴えても叱責を受けるのみでした...

松平辰蔵 江戸時代後期の三河国賀茂郡下河内村(今の愛知県豊田市)百姓。天保7年(1836)、三河国加茂郡・額田郡で1万人以上が蜂起し米屋などの打ちこわしを行った加茂一揆の頭取となるが鎮圧され、獄門を宣告された。 

滝脇村石御堂(松平辰蔵と加茂一揆)
天保7年(1836)、三河国(今の愛知県)加茂郡で凶作や米価高騰を機に「加茂一揆」が勃発し、額田郡を合わせ1万人規模に拡...

万石騒動の三義民 正徳元年(1711)、安房北条藩で年貢減免を求めて藩邸に門訴し処刑された名主3名を指す。安房北条藩は1万石の小藩で、家老に川井藤左衛門を登用して年貢増徴を行うが、百姓の反発を招いて江戸藩邸での門訴や幕府老中への駕籠訴に発展した。最終的に幕府評定所の詮議を経て、川井は死罪、藩主の屋代家は改易となった。 

三義民刑場跡(三義民と万石騒動)
正徳元年(1711)、安房国(今の千葉県)北条藩は川井藤左衛門を家老に登用して無理な年貢増徴を図り、領内百姓による藩邸門...

三日市場村和左衛門 江戸時代後期の信濃国安曇郡沢渡村(今の長野県北安曇郡白馬村)の枝郷である三日市場村の零細百姓・市平の倅。米価高騰に端を発して文政8年12月(1826年1月)に起きた「赤蓑騒動」の頭取の1人として永牢を申し付けられ、その後牢死した。 

鬼洞先生墓(三日市場村和左衛門と赤蓑騒動)
文政8年(1825)、信濃国四ヶ庄平(今の長野県)の貧農らが赤毛の蓑を着て大町宿などの酒屋や米屋を打ちこわす「赤蓑騒動」...

南山義民 享保5年(1720)以降の南山一揆の犠牲者をいう。南山御蔵入領と呼ばれた幕府直轄の南会津地方は、生産性の低い山がちの地形のため、年貢やその輸送の負担が大きかった。このため年貢減免や石代納を求めて百姓が田島代官所に強訴したが、権限がないと取り合わなかったので代表が江戸に上り直訴した。南会津一帯は会津藩の預地となり実質的に要求は実ったが、小栗山村喜四郎らが晒首となり、のち南山義民として顕彰された。 

南山義民之碑(南山義民と会津御蔵入騒動)
享保5年(1720)、生産性が低く年貢やその輸送の負担が大きかった会津御蔵入領の百姓らが江戸に上り負担軽減を直訴する「会...

三原定次郎 江戸時代中期の美濃国郡上郡前谷村(今の岐阜県郡上市)の百姓。財政難の郡上藩による年貢の検見取に反対して起こった「郡上一揆」において、宝暦5年(1755)に幕府老中・酒井忠寄への駕籠訴を行い、同8年(1758)に穀見野刑場で獄門となる。結果として郡上藩金森家は改易された。 

宝暦義民碑(三原定次郎と郡上一揆)
宝暦4年(1754)、美濃国(今の岐阜県)郡上藩による定免法から検見法への変更に反対した領民が八幡城下で強訴したのを皮切...

村上平兵衛 江戸時代中期の伊予国新居郡郷村(今の愛媛県新居浜市)の人。宝暦3年(1753)、西条藩の年貢増徴に反対する「西条三万石騒動」を起こして処刑され、高橋孫兵衛・高橋弥市左衛門とともに「三義民」として顕彰された。 

三義民の碑(村上平兵衛と西条三万石騒動)
宝暦3年(1753)、伊予国(今の愛媛県)西条藩では年貢を引き上げて財政難を打開しようとしたところ、これに反対する領内百...

明和義⺠ 明和3年(1766)に大垣藩領の美濃国(今の岐阜県)池田筋・長瀬筋・小島筋の農民が城下に押し寄せ、盛枡廃止や救米の給付を認めさせた「盛枡騒動」の犠牲者をいう。この騒動では宮地村(今の揖斐郡池田町)喜平次・要助、有里村(今の本巣市)新五郎・重吉の4人が強訴の頭取として死罪に処せられた。 

明和義民の碑(明和義民と盛枡騒動)
明和3年(1766)、大垣藩の年貢増徴策に対抗し、美濃国池田筋(今の岐阜県)ほかの農民が決起する「盛枡騒動」が起き、盛枡...

森武七 甲斐国都留郡下和田村(今の山梨県大月市)百姓。本名は森治左衛門。天保7年(1836)の郡内騒動の際、犬目の兵助とともに頭取となり、徒党を組んで米穀商での押借をしようとするが統制が取れず帰村、その後の甲斐一国にわたる打ちこわしや放火を招いた。代官所に自首するも直後に牢死している。 

森武七墓碑(森武七と郡内騒動)
天保7年(1836)、米価高騰に悩む甲斐国(今の山梨県)郡内地方の百姓らが、下和田村(今の大月市)の森武七を頭取に、米商...

諸岡太左衛門 江戸中期の上総国天羽郡金谷村(今の千葉県富津市)の農民。当時は旗本の白須政雍の知行地だったところ、天明の飢饉の最中に鉈止めと称する入会山利用の禁止と増税が命じられたため、他の農民たちと大挙して江戸の白須邸で門訴を行う。結果として布告は撤回されて旧に復したものの、入牢中の天明6年(1786)に獄死。菩提寺の華蔵院に墓が営まれ、富津市史跡として指定される。 

諸岡太左衛門の墓(諸岡太左衛門の門訴)
天明5年(1785)、上総国天羽郡金谷村(今の千葉県富津市)百姓・諸岡太左衛門が在地役人の横暴を旗本・白須政雍(まさちか...

文殊久助 江戸時代中期の山城国伏見町(今の京都府京都市)の鍛冶屋・町年寄。天明5年(1785)、町民に多額の御用金を賦課した伏見奉行・小堀政方の悪政を幕府に直訴し牢死した。この「伏見騒動」により小堀政方は改易された。 

伏見義民事蹟(文殊九助と天明伏見騒動)
天明5年(1785)、山城国伏見町(今の京都府京都市)の元町年寄・文殊久助ら7人は、伏見奉行・小堀政方による御用金賦課な...