「は」ではじまる義民

高山の古い町並み

2024年5月14日

このページは名前の読みが「は」行ではじまる義民を紹介しています。

橋本弥太夫 越前国南条郡赤萩村(今の福井県南条郡南越前町)の百姓弥平の倅。弥五郎ともいう。米価高騰に端を発する明和5年(1768)今泉打ちこわしの頭取4人のうちの知恵者で、廻状を作成したため打首に処せられた。身を隠すため伊勢参宮に出ていたが、帰村したところを捕らえられたという。 

畑中喜右衛門 江戸前期の出羽国前郷村名主。子吉川の氾濫に対し代官に河川改修を訴願するも、かえって百姓を煽動して強訴に及んだとして処刑される。死に臨み魂はこの地にとどまり河道を変えると遺言し、供養碑が建てられた。 

原嶋源右衛門 江戸中期の武蔵国多摩郡成瀬村(今の東京都町田市南成瀬ほか)の名主。村境の東光寺集落の新田開発に功があったが、隣接する都筑郡長津田村との間の境界争いに絡んで、享保元年(1716)ごろに一家もろとも処刑されたと伝わる。 

原助弥 江戸時代前期の信濃国水内郡高田村(今の長野県長野市)百姓。松代藩の年貢増徴に反対して幕府に訴え出たために一揆の首謀者として処刑された。玄米2斗8升を籾1俵に換算するよう要求したため「二斗八様」と呼ばれる。 

坂東町次郎 江戸時代後期の阿波国阿波郡大俣村(今の徳島県阿波市)の諸士家来で豪放磊落だったという。天保13年(1842)、農作物の不作に際して同志とかたらい組頭庄屋宅を打ちこわす「川人騒動」を引き起こし獄門となる。 

万葉善九郎 江戸時代中期の飛騨国吉城郡本郷村(今の岐阜県高山市)の百姓。飛騨代官・大原彦四郎による検地強化に反対し1万人が蜂起した安永2年(1773)の「大原騒動」(安永騒動)の頭取として獄門に処せられた。 

久末義民 元禄6年(1693)の門訴事件で殺害された武蔵国久末村(今の神奈川県川崎市高津区)の百姓を指す。当時の久末村は旗本の佐橋内蔵之助が支配していたところ、過酷な年貢取立てに困窮した百姓が何度か江戸に上り門訴に及ぶものの行方知れずとなり、最後に逃げ帰った1人により全員殺害されていたことが判明する。村人は犠牲者を供養するため地蔵尊や宝篋印塔を建立した。 

平井兵左衛門 江戸時代前期の讃岐国小豆島池田村(今の香川県小豆郡小豆島町)の大庄屋。正徳元年(1711)、高松藩預地の年貢減免を幕府に越訴し、江戸から高松に送り返さた上、島内の江尻浜で処刑された。 

平井村太兵衛 江戸時代前期の大和国宇陀郡平井村(今の奈良県宇陀市)庄屋。寛文8年(1668)、五津村庄屋・甚七郎とともに江戸在府中の宇陀松山藩主・織田長頼に対して租税軽減の直訴を行うが、殿中で恥辱を与えたとして甚七郎と子息3人ともども死罪となった。 

平方村新左衛門 江戸時代前期の伊勢国桑名郡平方村(今の三重県桑名市)の百姓。延宝3年(1675)、伊勢長島藩の家臣・金田猪左衛門が定めた秋の検見舂法により多くの潰れ百姓が生じたため、他の者とともに江戸に出て公儀に訴えたが、金田氏に引き渡されて死罪に処せられたという。 

平林新七 江戸時代中期の信濃国小県郡中挾村(今の長野県小県郡青木村)の組頭。旧慣を無視して検地を強行しようとした役人を殺害し、役人の越度は認められるものの、自身は死罪又は追放になったといわれ、新七稲荷に祀られる。 

平沢佐七 常陸国那珂郡三反田村(今の茨城県ひたちなか市)の庄屋。享保の飢饉に際して水戸藩に無断で郷蔵を開いて穀物を農民に分け与え、その責を負って妻子を手に掛けた上で切腹したという伝説をもつ。切腹した場所に建てられた墓が明治以降に参詣者が増えて霊堂が営まれ、現在は佐七山福道寺という日蓮宗寺院になっている。 

平野源蔵 江戸時代前期の三河国宝飯郡広石村(今の愛知県豊川市)庄屋。入会地を巡る争いを幕府代官所に直訴し打首となるが入会権は守られた。明治時代に共有山分割盟約が結ばれ問題の恒久的な解決をみた。 

福田助六 江戸中期の常陸国新治郡下佐谷村(今の茨城県かすみがうら市)の人で、名主とも百姓代ともいわれる。旗本・本堂家による過酷な年貢や助郷役の負担に耐えかねた志筑領内25か村の百姓が集まり、安永7年に江戸屋敷に強訴した助六一揆を主導して獄門に処された。 

藤井角右衛門 江戸時代中期の長門国豊浦郡浮石村(今の山口県豊浦郡豊田町)給庄屋。長府藩家老・椙杜元世の重税に苦しみ、宝永7年(1710)、幕府巡見使に年貢減免を直訴して要求を認められるが、他の4人とともに処刑された。 

藤田民次郎 江戸後期の陸奥国津軽郡鬼沢村の百姓。文化10年(1813)、弘前藩では蝦夷地警備や冷害によって百姓の年貢の負担が高まる中、2千人が弘前城下に押しかけ強訴する一揆が発生、藩は蔵米放出や年貢減免などで対応するが、民次郎はこの一揆の首謀者として名乗り出て斬首され、後に義民として崇められた。 

布施村弥五郎 下総国相馬郡布施村(今の千葉県柏市)の百姓。布施村が上州沼田藩本多家の飛地だった元禄16年(1703)、飢饉に苦しみ年貢の減免を求めて藩公に直訴しようとして在所で処刑されたという。処刑地は布施弁天の下の河原に位置し「弥五塚」と呼ばれ、祟り地として恐れられた。 

遍照坊智専 江戸時代中期の佐渡国(今の新潟県佐渡市)雑太郡長谷村の遍照坊住職。明和4年(1767)、不作の中で年貢を厳しく取り立てた代官所への強訴が企てられるが未然に発覚し、訴状をしたためた遍照坊智専のみ死罪となった。稲の害虫ウンカの発生は怨霊の仕業と噂され、佐渡各地に供養塔が建てられた。 

坊沢の五義民 出羽国秋田郡坊沢村(秋田県北秋田市)で村入用をめぐって肝煎と対立し、久保田藩に直訴したため在地で斬首となった5人の農民をいう。当時、戦国時代に比内浅利家の家臣だった長崎家が引き続き肝煎を担っており、新田開発などに功績があったものの、その費用が農民に割り当てられたのが騒動の理由となった。 

宝暦義⺠ 加賀藩領宇出津組(今の石川県鳳珠郡能登町)で起きた「源五騒動」に絡む一連の犠牲者をいう。宝暦6年(1756)の凶作では十村役・源五宅の打ちこわしが発生し、中斎村甚左衛門ら7人が獄死した。宝暦8年(1758)には宇出津組で年貢米の不足が発見され、寺分村勘十郎らが入牢している。 

細野冉兵衛 常陸国新治郡深谷村(今の茨城県かすみがうら市)の人で土浦藩東郷名主惣代。土浦藩領の天童一揆を鎮撫し名声があったが、天保5年(1834)の志戸崎騒動で農民の味方をし、出役(代官)に背いたとして永牢となり、翌年牢死している。 

堀内勇吉 江戸時代後期の信濃国小県郡入奈良本村(今の長野県小県郡青木村)組頭。上田城下に押し掛け宿場新建てと庄屋不正につき愁訴し、願いは認められたが永牢の処罰を受け獄死した。死後に勇吉宮に祀られる。 

堀江六之丞 江戸時代の下野国足利郡板倉村(今の栃木県足利市)の人。不作による年貢減免を求めて河内丹南藩の陣屋に強訴しようとした百姓を説得するものの、藩からは一揆の頭取と見なされ妻よねとともに処刑される。後に義民として六之丞八幡宮に祀られる。 

堀越三右衛門 旗本の倉橋内匠助久盛が凶作にもかかわらず領地で年貢増徴を行ったことから、窮状を幕府に直訴しようとした上野国の名主。堀越三右衛門は緑埜村の名主で、寛文7年(1667)に訴状を提出するも、在地で処刑された。三木市右衛門は黒熊村名主で、寛文8年(1668)に直訴を企てて未遂となり、8年入牢後に国払いとなった。再度の直訴により倉橋家は改易された。 

本田又左衛門 江戸時代中期の丹波国天田郡石場村(今の京都府福知山市)の元庄屋。享保19年(1734)に福知山藩で起きた「享保の強訴」の頭取であることが10年後に発覚し、既に病死していたため死体を掘り出し首を刎ねられた。 

本間太郎右衛門 江戸時代中期の佐渡国(今の新潟県佐渡市)雑太郡山田村の元名主で新田開発により辰巳村を立てて移住した。奉行所による年貢増徴に端を発した寛延3年(1750)の「佐渡寛延一揆」の惣代として死罪に処せられた。 

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)