「あ」からはじまる義民

穴井六郎右衛門像

2024年4月1日

このページは名前の読みが「あ」行ではじまる義民を紹介しています。

赤尾丹治 江戸時代後期の豊前国宇佐郡赤尾村(今の大分県宇佐市)大庄屋の養子。岡藩から起こった「文化一揆」に触発され、桂掛井堰の建設に係る加免撤廃を求めて中津藩への強訴に及び、文化9年(1812)に打首獄門となる。 

赤松源右衛門 江戸時代中期の丹後国加佐郡二箇村(今の京都府福知山市)年寄。享保18年(1733)、田辺藩に年貢率引下げなどを要求した享保一揆を指導し獄門となる。弟の佐兵衛とともに「赤松義民」と呼ばれ、稲荷社に祀られた。 

朝来村三兵衛 江戸時代後期の伊国牟婁郡朝来村(今の和歌山県西牟婁郡上富田町)の人。毛見に当たり郡奉行・代官で重複する巡見は無益と主張し、簀巻きにされ海中に投じられたという伝説を残す。 

穴井六郎右衛門 江戸時代中期の豊後国日田郡馬原村(今の大分県日田市)の庄屋。江戸に出て幕府代官の苛政を幕府に直訴し、訴状は受理されたものの、帰国後に捕縛されて死罪獄門に処せられた。 

新井宿義民六人衆 武蔵国荏原郡新井宿村で、領主の旗本・木原義永の悪政を幕府に直訴しようとして果たせず、延宝5年(1677)に江戸の木原邸で斬首された犠牲者6名をいう。重税のため借金をする窮状を綴った「新井宿村名主惣百姓等訴状写」は東京都の指定有形文化財となっている。また、遺骸を密かに埋葬した墓は東京都大田区の善慶寺にある。 

有田村吉左衛門 江戸時代中期の安芸国山県郡有田村(今の広島県山県郡北広島町)百姓。享保3年(1718)広島藩領の「享保一揆」で頭取となり、藩に頭庄屋廃止や定免制撤廃などを認めさせたが、後に獄門の刑に処せられた。 

和泉新三郎 江戸時代前期の丹波国天田郡厚村(今の京都府福知山市)の人。慶長6年(1601)、福知山城主・有馬豊氏による検地の際に役人を殺害し、自身も殺害されたが、村は検地を免れたという。死後祟りにより若宮に祀られた。 

生田万 江戸時代後期の国学者で上野国(今の群馬県)館林藩士・生田信勝の長男。藩政の腐敗を批判して追放された後、越後国刈羽郡柏崎町(今の新潟県柏崎市)で私塾・桜園塾を開く。「天保の大飢饉」による米価高騰を憂い、天保8年(1837)、「大塩平八郎の乱」に呼応して柏崎陣屋を襲撃し、自刃して果てた。 

池田三郎左衛門 江戸時代初期の上総国望陀郡田川村(今の千葉県木更津市)の名主。慶長検地による増税を受けて幕府に再検地を直訴し、租税の軽減が図られるものの、強訴として死罪となった。地元の十王堂に木像があり、おびんずる(賓頭盧)さまとして祀られている。 

池田徳右衛門 江戸時代中期の美作国真島郡仲間村牧分(今の岡山県真庭市)の人。享保11年(1726)から翌年にかけての津山藩領「山中一揆」を指導し、一時要求を認めさせたが、藩の方針転換により鎮圧され、院庄河原で処刑された。 

石上清兵衛 江戸時代前期の駿河国志太郡高柳村(今の静岡県藤枝市)の庄屋。田中藩に年貢減免を訴願し、25歳にして茶屋河原で処刑されたと伝わる。茶屋河原に清兵衛地蔵が残るほか、明治時代に地元寺院に木像が奉納されている。 

磯部村清太夫 江戸中期の常陸国磯部村(今の茨城県桜川市)名主で磯部神社神主。寛延2年(1749)、山外郷27か村から千人の百姓が笠間城下で年貢減免の強訴を行った山外郷一揆の頭取として獄門となる。 

板橋政右衛門 江戸幕末の横浜開港から続く米価騰貴を受けて、那須烏山の農民たちが明治2年(1869)に畑年貢の米納から金納(永納)への変更を烏山藩や新政府の弾正台などに訴願した際の代表者。訴願は実らず流刑となり後に釈放されるが、その顛末は宮原八幡宮境内に建つ「圃租法変更紀念碑」などから知られる。 

市毛藤衛門 常陸国茨城郡上吉影村の庄屋。水戸藩宝永改革による年貢増徴や運河建設における賃金未払いなどに端を発した「水戸藩宝永一揆」の頭取として江戸藩邸に強訴し、改革の責任者だった松波勘十郎らを罷免に追い込んだ。 

市原清兵衛 江戸時代後期の丹波国多紀郡市原村(今の兵庫県丹波篠山市)の人。寛政12年(1800)、江戸で篠山藩主・青山忠裕(ただやす)に酒造の出稼ぎ解禁を直訴し認めさせた。近代に入ると丹波杜氏の功労者として顕彰された。 

井上吉右衛門 江戸時代中期の河内国丹南郡北野田村(今の大阪府堺市)庄屋。不作を理由に拝借金や夫食米下付を丹南藩に強訴した明和6年(1769)の郷中騒動で役儀追放となるが、死後その徳を讃え「迎え地蔵尊」に祀られた。 

伊深義⺠ 美濃国加茂郡伊深村(今の岐阜県美濃加茂市)では不作が続いて生活に困窮する百姓が増えたため、天和2年(1682)に年貢減免を求めて幕府に越訴し、多数が打首または獄死を遂げた。この「伊深義民事件」による犠牲者をいい、現地には後の領主が建てた石地蔵や供養碑が残る。 

今村久兵衛 江戸時代前期の伊予国久米郡片平村(今の愛媛県松山市)里正。寛永7年(1630)の干魃の際、松山藩に検見による年貢減免を求めるが、村人が検見前に勝手に不作の稲を焼き払ったことから課税逃れを疑われ磔となった。 

岩野平左衛門 江戸時代前期の上総国天羽郡百首村(今の千葉県富津市)の名主。旗本の秋元隼人正時朝が重税を取り立てたことに抗議して延宝8年(1680)に処刑され、死後に「岩平大権現」として祀られる。松翁院境内に墓とされる石仏が残る。 

岩本源三 江戸時代後期の壱岐国壱岐郡可須村(今の長崎県壱岐市)百姓。地割などに関する平戸藩役人の不正を将軍・徳川家斉に直訴し捕縛され、文政3年(1820)に壱岐島内の百間馬場で処刑されたと伝わる。 

因尾村杢右衛門 江戸時代後期の豊後国海部郡因尾村(今の大分県佐伯市)百姓。文化9年(1812)、佐伯藩領7か村の百姓が蜂起して大庄屋宅などを打ちこわし年貢軽減などを強訴した「文化一揆」の頭取として同年中に処刑された。 

内田馬之丞 江戸時代前期の紀伊国那賀郡打田村(今の和歌山県紀の川市)にあった中ノ宮神社の神官。慶安2年(1649)、過酷な年貢に喘ぐ村人のために紀州藩主に直訴し、後に「恩徳堂」が建てられたという。 

畝原覚之丞 江戸時代前期の延岡藩家老の被官で、日向国臼杵郡山陰村(今の宮崎県日向市)の住人。元禄3年(1690)の「山陰百姓一揆」の際、逃散百姓を連れ戻すよう藩命を受けたが佐土原藩領に逃亡し、江戸で獄死した。 

遠藤藤五郎 江戸時代末期の駿河国有度郡三保村(今の静岡県静岡市清水区)の小前百姓。安政の大地震による困窮の中、土地の開墾を巡り領主の御穂神社と対立し幕府に越訴した。その後獄死したため藤五郎神社に祀られた。 

遠藤兵内 江戸中期の武蔵国児玉郡関村(今の埼玉県児玉郡美里町)の名主。関村兵内ともいう。幕府が中山道沿いの村々に増助郷を課したことへの反発から、明和元年(1764)から翌年にかけて発生した、武蔵・上野・信濃・下野の4か国20万人規模の大一揆「伝馬騒動」の首謀者として獄門に処された。 

大塩平八郎 江戸時代後期の陽明学者・元大坂町奉行与力。天保の大飢饉に当たり無策を続ける奉行所や私欲に走る豪商に憤り、大坂市中で「大塩平八郎の乱」を起こしたが、幕府軍に敗れ潜伏先で爆死した。庶民からは「大石様」と崇められ、越後国柏崎の「生田万の乱」、摂津国能勢の「能勢騒動」にも波及した。 

大竹半十郎 江戸中期の陸奥国白川郡上野出島村(今の福島県白河市)の一揆指導者。寛政10年(1799)、越後高田藩領だった陸奥国白川・田村・石川・岩瀬4郡の村々において大庄屋や駒付役らの中間搾取に憤った百姓が蜂起した浅川騒動の頭取となり、翌年打首に処せられた。浅川の花火は一揆犠牲者の供養を目的に始まったとの説がある。 

大竹与茂七 江戸時代中期の越後国蒲原郡中之島村(今の新潟県長岡市)名主。大庄屋の不正を新発田藩に訴えるが、釘抜きで歯を抜かれる拷問の末、大庄屋へ非義を申し掛けたとして獄門となる。後の新発田城下の大火は怨霊による「与茂七火事」と噂され、諏訪神社末社の五十志霊神社に火伏せの神として祀られた。 

大多和四郎右衛門 江戸前期の上総国山辺郡東金町(今の千葉県東金市)の名主。干魃に際して佐倉藩の了承を得ずに米蔵を開いて百姓を救い、自らは責任をとって息子とともに道庭村の石切橋で自刃したといわれる。 

大西権兵衛 江戸時代中期の讃岐国三野郡笠岡村(今の香川県三豊市)の人。丸亀・多度津両藩の百姓が蜂起した寛延3年(1750)の「西讃農民一揆」の頭取として磔刑に処せられる。後に他の処刑者とともに「七人同志」と崇められた。 

岡村源兵衛 江戸前期の播磨国美嚢郡三木町(今の兵庫県三木市)の平田町大庄屋。豊臣秀吉以来の地子免除の特権を延宝検地で否定されたため、延宝6年(1678)、平山町年寄の大西与三右衛門と江戸で直訴に及んだ。 

岡村権左衛門 江戸時代後期の越後国三島郡浦村(今の新潟県長岡市)の組頭。浦村を含む川西組9か村が天領から長岡藩領へと変更され年貢が増徴されたことから、寛政3年(1791)、村々が一味神水して傘連判状を作成し、年貢減免を長岡藩に訴えた。減免は認められたが頭取の権左衛門は獄門となった。 

小木曽猪兵衛 江戸時代末期の信濃国伊那郡今田村(今の長野県飯田市)の庄屋。白河藩の年貢増徴に対抗した安政6年(1859)の「南山一揆」を主導し、過去の一揆の事例を研究して百姓側の犠牲なしに要求を実現させた。 

忍足佐内 江戸時代の安房国平郡金尾谷村の名主。安房勝山藩主・酒井忠隣に対して年貢減免と御国奉行・稲葉重佐衛門及び代官・藤田嘉内の不正を直訴(門訴)しようとして、かえって捕らえられて白塚川原で処刑された。その後も妻や母が幕府老中への駕籠訴を行うなどして不正が発覚し、稲葉・藤田両名は酒井家を追放となり、忍足家も再興された。明治時代の自由民権運動のなかで再評価され、処刑地近くに「義民忍足佐内殉難の碑」も建てられた。 

小沼庄左衛門 江戸前期の上野国山田郡台之郷村(今の群馬県太田市)の庄屋。延宝年間、館林藩の役人が年貢を不正に徴収したため、庄左衛門を含む18名が百姓惣代として江戸に赴き藩主に直訴し、訴えは認められたが、18名全員が磔刑に処せられた。 

小村田之助 江戸時代初期の讃岐国山田郡小村(おもれ、今の香川県高松市)の庄屋。寛永20年(1643)、凶作を理由に年貢分納を高松藩に嘆願し認められるが、不遜として翌年斬罪に処せられた。 

折立長老 江戸時代初期の信濃国伊那郡満島村(今の長野県下伊那郡天龍村)の僧侶で元は武士という。旗本遠山氏の苛政に耐えかねた百姓らのため訴状を作成したことから遠山氏の拷問を受けて元和4年(1618)死亡し、これに憤った百姓一揆により居城を攻められた遠山氏は滅亡したという伝承がある。 

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)