百姓一揆義民年表

2024年4月1日

近世を中心とした歴史的に重要な出来事、百姓一揆やその顛末を記載した年表です。
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百姓一揆義民年表

西暦 年号 歴史的事件または伝承
1591年 天正19年 天正北郷樋事件 水不足に悩む摂津国(兵庫県)鳴尾村が瓦林村から無断引水して乱闘事件に発展。豊臣政権の喧嘩停止令に違反したとして、翌年51人が磔刑に処せられる。
1600年 慶長5年 関ヶ原の戦い
1601年 慶長6年 丹波国(京都府)厚村の和泉新三郎、「有馬検地」に抵抗して役人を殺害し、死後若宮に祀られたという。土師村でも検地反対の農民が投獄された責任を取り庄屋・勘左衛門が自殺、農民は解放され、庄屋は若宮に祀られたという。
1603年 慶長8年 徳川家康に将軍宣下、江戸開府
1605年 慶長10年 上総国(千葉県)東金で年貢減免を認めない検田使を斬り捨て米倉の蓄えを百姓に分け与えた市東刑部左衛門が切腹。
1608年 慶長13年 山代慶長一揆 長州藩の慶長検地と高率な年貢に反発し、周防国(山口県)山代郷の庄屋・北野孫兵衛ら11人を中心とする一揆が起こり、年貢は引き下げられたものの、全員が磔刑となる。
1609年 慶長14年 生瀬騒動(生瀬乱) 常陸国久慈郡小生瀬村(今の茨城県久慈郡大子町)でニセ役人に年貢を騙し取られたが、後から来た本物を勘違いで殺害した、あるいは最初から百姓が徒党を組んで役人殺害を目論んだといい、水戸藩は報復のため芦沢伊賀守に藩兵を率いさせて村を三方から包囲、地獄沢に百姓らを追い詰め一村成敗(皆殺し)にしたという。発生年は諸説あるが水戸藩の学者・高倉逸斎らが伝説を記録している。
1611年 慶長16年 増税に苦しむ上総国(千葉県)田川村で再検地を求めた池田三郎左衛門が死罪になる。
1612年 慶長17年 キリスト教禁止令
1613年 慶長18年 近江国(滋賀県)富川村庄屋・彦治と弟の源吾、膳所藩の悪政を幕府巡検使に直訴し、人馬役の負担を免除されるものの、翌年兄弟ともに佐馬野峠で磔刑に処せられる。
1614年 慶長19年 大阪冬の陣
1615年 元和元年 大阪夏の陣、豊臣家滅亡
1615年 元和元年 武家諸法度・禁中並公家諸法度
1618年 元和4年 遠山騒動 信濃国(長野県)遠山郷を支配する旗本・遠山氏の苛政を公儀に訴える願書を作成した折立長老が拷問死し、憤った百姓が一揆を起こして遠山氏を滅亡させる。
1618年 元和4年 山城国(京都府)伏見町の薪炭商・小林勘次、過書船の船銭高騰につき幕府に直訴、朱印状を得て従来通りとなるも、帰途で殺害される。
1621年 元和7年 丹波国(兵庫県)二ノ坪村庄屋の中尾重兵衛ら、不作の中で篠山藩が生木物の上納を命じたことから京都所司代に越訴、新税は取止めとなったが頭取9人が磔刑に処せられる。
1622年 元和8年 元和の大殉教
1623年 元和9年 徳川家光に将軍宣下
1624年 寛永元年 スペイン船来航禁止
1626年 寛永3年 遠江国(静岡県)嶺田村の中条右近太夫が密かに土地を測量の上で灌漑用水開削を将軍に直訴、右近太夫は処刑されるものの天下普請により嶺田用水が完成する。
1630年 寛永7年 片平騒動 伊予国(愛媛県)片平村里正(庄屋)の今村久兵衛、蝗害による検見と年貢減免を代官に願い出るも、課税逃れを疑われた村民の身代わりとして磔刑に処せられる。
1633年 寛永10年 白岩一揆(~1638年) 出羽国(山形県)の百姓が「白岩目安」で旗本・酒井忠重の苛政を幕府に直訴、忠重は改易され代官支配となる。状況は変わらず寛永15年(1638)に再び一揆が起きるが、保科正之が百姓36名を磔刑に処した。
1635年 寛永12年 参勤交代
1637年 寛永14年 島原の乱 過酷な徴税とキリシタン迫害に耐えかねた島原・天草の民衆3万7千人が益田四郎を総大将に蜂起、原城に籠城するも幕府軍により全滅し、以後鎖国政策が進む。
1639年 寛永16年 ポルトガル船来航禁止
1639年 寛永16年 筑前国(福岡県)津屋崎村浦庄屋・左兵衛らいわゆる義民六人士、勝浦村との漁場争いで福岡藩に直訴、目的を果たすも全員斬首となる。
1640年 寛永17年 寛永の強訴 和泉国(大阪府)沼村庄屋・川崎久左衛門ら、転封に伴い初入国した領主・岡部宣勝を待ち受け強訴を企て、年貢減石は認められるものの、津田河畔で斬首される。
1641年 寛永18年 オランダ商館の出島移転
1641年 寛永18年 常陸国(茨城県)水戸藩で金沢村庄屋の照山修理が寛永検地に反対して磔刑に処せられる。
1642年 寛永19年 寛永の大飢饉(~1643年)
1643年 寛永20年 田畑永代売買禁止令
1643年 寛永20年 上総国(千葉県)東金の名主・大多和四郎右衛門が飢饉に際し佐倉藩の米蔵を開き農民に米を分け与えて切腹。
1643年 寛永20年 讃岐国(香川県)小村の庄屋・田之助、皆済できなければ庄屋が私費で弁済する条件で困窮百姓の年貢分納を高松藩に提案するも、庄屋の分際で不遜として翌年斬首される。
1645年 正保2年 冷害に悩む出羽国(秋田県)上到米村の長百姓佐藤甚助が久保田藩主・佐竹義隆に直訴、翌年に年貢減免が認められる。
1645年 正保2年 越後国(新潟県)馬堀村庄屋・田辺小兵衛が用水路を開削するも幕府役人から独断で工事を行った責任を問われ自殺を申し渡される。
1648年 慶安元年 丹波国(京都府)報恩寺村庄屋の片岡治兵衛、猪被害による年貢減免を求め、福知山藩主・稲葉紀通の不興を買い桶伏せの刑に処せられる。
1649年 慶安2年 紀伊国(和歌山県)打田村で検地役人の怨恨から重税が課せられるようになり、神官・内田馬之丞が和歌山藩主・徳川頼宣に直訴、年貢は従前に戻されたという。
1651年 慶安4年 慶安事件(由比正雪の乱)
1652年 承応元年 小浜藩領承応元年一揆 小浜藩に大豆年貢の引下げを繰り返し訴願し逮捕された惣代のうち、新道村庄屋の松木庄左衛門のみが主張を曲げず、この年日笠河原で磔刑に処せられる。
1653年 承応2年 佐倉惣五郎一揆 下総国(千葉県)公津村の木内惣五郎が佐倉藩の悪政を将軍に直訴し処刑される。堀田家改易は祟りと噂され、『佐倉義民伝』として文芸のモチーフにもなる。
1657年 明暦3年 明暦の大火
1658年 万治元年 出羽国(秋田県)前郷村で代官に河川改修を訴願した畑中喜右衛門が処刑される。
1660年 万治3年 相模国(神奈川県)関本村名主の下田隼人が小田原藩主・稲葉正則に麦租反対を直訴して死罪になる。
1660年 万治3年 越中国(富山県)で和田野の町建てを行い肝煎となった佐助が困窮農民を救うための隠田開発で磔刑に処せられる。
1660年 万治3年 美濃国(岐阜県)桐原村で尾張藩の重課に反対する農民が神社に屯集、中島助兵衛がこれをなだめて単身で江戸の藩主に直訴するも牢死。
1662年 寛文2年 下総国(千葉県)牧野村の椎名源治が地頭・黒川左馬の苛政を公儀に訴え、生埋めにして処刑される。
1664年 寛文4年 大保木騒動 伊予国(愛媛県)中奥山庄屋・工藤治兵衛、年貢銀納を求めて西条藩に強訴、連座した嬰児ともども処刑される。藩主・一柳直興は改易され、後に銀納も認められる。
1665年 寛文5年 浦野事件 加賀国(石川県)鹿島半郡で給人・浦野孫右衛門が検地に反対、十村役・園田道閑らも同調するが、加賀藩主の裁定により孫右衛門は切腹、道閑は磔となる。
1666年 寛文6年 信夫目安事件 末期養子で領地を半減された米沢藩が預地の出羽国(山形県)屋代郷で激しい収奪を行い、二井宿村肝煎の高梨利右衛門が「信夫目安」を信夫代官所に提出、江戸でも越訴しようとして処刑される。
1667年 寛文7年 上野国(群馬県)緑埜村名主の堀越三右衛門が地頭・倉橋内匠の悪政を公儀に直訴し、磔刑に処せられる。黒熊村名主の三木市右右衛門による再度の直訴で倉橋家は改易。
1668年 寛文8年 大和国(奈良県)宇陀松山藩で用人頭の私曲のため百姓難渋し、平井村庄屋・太兵衛らが江戸で藩主・織田長頼に越訴に及ぶも、殿中で恥辱を与えたとして死罪となる。
1669年 寛文9年 三河国(愛知県)宝飯郡で入会争論が起き、広石村庄屋・平野源蔵らが幕府代官に直訴、入会権は守られたものの庄屋らは処刑される。
1669年 寛文9年 シャクシャインの乱
1673年 寛文13年 比留輪山騒動 三河国(愛知県)比留輪山を巡る山論が発生、野田村は幕府へ越訴を繰り返し、評定所の裁決で枝打ちなどの権利を認めさせるものの河合清右衛門が獄門となる。
1673年 寛文13年 上総国(千葉県)新田村の里正・山田藤右衛門が旗本・太田八十郎に年貢増徴の撤回を求め遠島となる。
寛文年間 周防国(山口県)恋路村の2少年、旱害に悩む村人のため宮野川上流の井手を切り無断引水、長州藩主・毛利綱広にも窮状を直訴し、水論は解決したが2人とも処刑される。
1674年 延宝2年 二斗八騒動 信濃国(長野県)善光寺平の名主らが合議し松代藩領の年貢を籾1俵当たり2斗8升に引き下げるよう幕府に直訴、高田村助弥らが藩に捕らえられ処刑される。
1675年 延宝3年 新左衛門公事 長島藩領の伊勢国(三重県)平方村百姓・新左衛門が検見舂法免除を幕府評定所に越訴、吟味の末獄門となる。
1676年 延宝4年 上野国(群馬県)台之郷村庄屋・小沼庄左衛門ら18名が館林藩役人の不正を幕府に直訴し、全員が磔刑に処せられる。
1677年 延宝5年 武蔵国(東京都)新井宿村の間宮太郎兵衛はじめ六人衆が旗本・木原義永の悪政を幕府に直訴しようとして未遂に終わり、全員が木原邸で斬首される。
1677年 延宝5年 三河国(愛知県)大浜茶屋村庄屋・柴田助太夫が助郷役免除の訴願を繰り返し死罪となるが、以後幕末に至るまで助郷役が免除される。
1678年 延宝6年 摂津国(大阪府)山口村庄屋・西尾六右衛門らの3庄屋、水害に悩み幕府に無断で中島大水道を開削し、責を負って切腹したと伝わる。
1678年 延宝6年 播磨国(兵庫県)三木町の平田町大庄屋・岡村源兵衛ら、豊臣秀吉以来の地子免除の特権を否定されたため江戸で直訴に及び、秀吉の制札を証拠に願意が認められる。
1679年 延宝7年 延宝騒動 生駒領の出羽国(秋田県)矢島郷で重臣の山本一家が増税を強いたため、百姓が江戸に直訴して山本一家は失脚。代わって台頭した城代家老・市橋彦兵衛も搾取を続けたため、佐藤仁左衛門らが再度直訴して領主の朱印状を得るが、市橋により処刑又は謀殺され、後に和解が成立。
1680年 延宝8年 上総国(千葉県)百首村名主の岩野平左衛門が重税を賦課する旗本・秋元隼人正に諌言して処刑される。
1681年 天和元年 磔茂左衛門一揆 上野国(群馬県)月夜野村の杉木茂左衛門が沼田藩の悪政を幕府に直訴、真田家は改易となるが、茂左衛門も磔刑に処せられる。典型的な代表越訴型一揆。
1681年 天和元年 旱害に苦しむ村のため越後国(新潟県)曽根組大庄屋・高橋源助が用水路を開削するが、反対者の妨害に遭い通水せず打首となる。
1681年 天和元年 駿河国(静岡県)青島村名主・川口市郎兵衛が検地に反対して役人を立ち入らせず、鈴ヶ森で磔刑に処せられる。
1681年 天和元年 不漁・不作による困窮から三河国(愛知県)中山村庄屋の河合伊左衛門らが御領林の立木払下げを領主の旗本・清水権之助に直訴、代官の讒言で斬罪になる。
1682年 天和2年 重税にあえぐ陸奥国(岩手県)釘子村の肝煎・昆野八郎右衛門が仙台藩主・伊達綱村に直訴して処刑される。
1682年 天和2年 安房国(千葉県)大神宮村川坂の名主・小柴三郎左衛門らいわゆる大神宮義民七人様が旗本・河野三左衛門の苛政を幕府老中に越訴するものの、敗訴となり処刑される。/重税にあえぐ陸奥国(岩手県)釘子村の肝煎・昆野八郎右衛門が仙台藩主・伊達綱村に直訴して処刑される。
1682年 天和2年 信濃国(長野県)入奈良本村の百姓・増田与兵衛、庄屋の不正を上田藩主に直訴し処刑される。
1682年 天和2年 伊深義民事件 旗本・佐藤継成の知行所だった美濃国(岐阜県)伊深村の百姓代表が江戸に上りに年貢減免を幕府目付に越訴、うち多数が牢死又は死罪となる。
1686年 貞享3年 貞享騒動 信濃国(長野県)中萱村元庄屋・多田加助が年貢減免を求めて郡奉行に越訴、追随して領内百姓1万人が松本城下に押し寄せ、加助を含む多くの農民が処刑される。
1687年 貞享4年 生類憐れみの令
1688年 元禄元年 土佐国(高知県)上八川村里正・高橋安之丞、飢饉による年貢減免を土佐藩に願い出るも、土地を巡る争いから讒訴を受けて死罪になったという。
1689年 元禄2年 上野国(群馬県)多胡村庄屋の白田六郎右衛門が飢饉に際し年貢米を独断で農民に分け与えて死罪となる。
1690年 元禄3年 山陰一揆 郡代の苛政に耐えかねた日向国(宮崎県)延岡藩領の山陰村民が高鍋藩に逃散し、幕府裁定で多数が処罰されるも、藩主・有馬氏は糸魚川に転封されて幕府領となる。
1692年 元禄5年 駿河国(静岡県)高柳村庄屋・石上清兵衛、田中藩の代官に年貢減免を訴願し、茶屋河原で打首となる。
1693年 元禄6年 武蔵国(神奈川県)久末村の検地に関連して領主・佐橋内蔵之助の屋敷に年貢減免の門訴をした百姓多数が殺害される。
1702年 元禄15年 赤穂事件
1703年 元禄16年 下総国(千葉県)布施村弥五郎が年貢減免を領主に直訴しようとして打首に処せられる。
1708年 宝永5年 播磨国(兵庫県)新野村の大庄屋・上月平左衛門、飢饉に際し領主の旗本・池田氏に年貢減免を嘆願するも容れられず、幕府に越訴しようとする途次で殺害されたという。
1708年 宝永5年 土生騒動 伊予国(愛媛県)下弓削村組頭・田頭庄右衛門、庄屋宅に押し掛け年貢減免をたびたび要求、弓削島において斬首される。
1709年 宝永6年 正徳の治
1709年 宝永6年 水戸藩宝永一揆 松波勘十郎を登用して宝永改革を進める水戸藩で、運河開削の労役や賃金未済を巡る百姓の不満が爆発して支藩・守山藩への強訴が発生。上吉影村庄屋・市毛藤衛門と奉行との直接対決で農民が勝利、改革中止が決まる。
1710年 宝永7年 浮石義民事件 重税に苦しむ長門国(山口県)浮石村給庄屋・藤井角左衛門らが幕府巡見使に直訴、年貢は平年通りとなるも、直訴をした5人は長府藩に引き渡され斬首される。
1710年 宝永7年 長州藩の益田氏給地となっていた周防国(山口県)長野村で重税や課役に反発した庄屋の子・松原清介らが藩主に直訴、願意は認められるものの、刎首の刑に処せられる。
1711年 正徳元年 万石騒動 安房国(千葉県)北条藩は川井藤左衛門を家老に登用して年貢増徴を図るが、藩邸への門訴や幕府老中への駕籠訴を招く。頭取(三義民)が川井の独断で死罪となるが、幕府評定所の詮議で川井も死罪、屋代家は改易となった。
1711年 正徳元年 駿河国(静岡県)深良村周辺の水不足解消のため、芦ノ湖を水源とした箱根用水開削の大工事が行われるが、元締を務めた友野与右衛門らは幕府と対立し打首になったと伝えられ、この年供養のための石碑や石仏が造立される。
1711年 正徳元年 小豆島正徳一揆 讃岐国(香川県)小豆島の高松藩預地につき、池田村大庄屋・平井兵左衛門が年貢減免を求めて幕府に越訴、斬罪獄門となる。
1712年 正徳2年 与茂七騒動 越後国(新潟県)中之島村名主・大竹与茂七が大庄屋の不正を新発田藩に訴えるも、大庄屋へ非義を申し掛け徒党強訴に及んだとして翌年獄門となる。
1716年 享保元年 徳川吉宗に将軍宣下
1716年 享保元年 享保の改革
1716年 享保元年 武蔵国(東京都)成瀬村名主・原嶋源右衛門が長津田村との境界争いで勝訴するも、不正を問われ一家全員処刑される。
1716年 享保元年 バンドリ一揆 越中国(富山県)の漁民らが六軒問屋に反発して奉行所に強訴、惣代の佐賀野屋久右衛門らが加賀藩により放生津西浜で処刑される。
1717年 享保2年 新本義民騒動 備中国(岡山県)で入会山を接収された百姓らが岡田藩と対立、翌年いわゆる義民四人衆が江戸で藩主・岡田長救に直訴、訴えは認められるも全員処刑される。
1718年 享保3年 享保一揆 広島藩の正徳新格による農村支配強化に反発し、安芸・備後(広島県)両国にまたがる大一揆が勃発、要求は認められるが、有田村吉左衛門ら多数が極刑となる。
1719年 享保4年 相対済令
1720年 享保5年 南山御蔵入騒動 生産性が低く年貢やその輸送の負担が大きい会津御蔵入領の百姓らが江戸に上り直訴。一帯は会津藩預地となり要求は実ったが、小栗山村喜四郎らが晒首となった。
1720年 享保5年 高野枡一揆 紀伊国(和歌山県)高野山領の年貢不正徴収に関し、島野村庄屋・戸谷新右衛門が幕府に越訴し是正されるも、帰郷後に石子詰で処刑されたという。
1721年 享保6年 目安箱の設置
1721年 享保6年 信濃国(長野県)中挾村で旧慣を破って検地を強行しようとした役人を組頭・平林新七が殺害して死罪となる。
1722年 享保7年 上米の制
1722年 享保7年 頸城質地騒動 幕府の流地禁止令を曲解した越後国(新潟県)頸城郡の百姓が質流れの田畑を実力で取り戻そうとしたため、禁止令は撤回され吉岡村市兵衛ら多数が処刑される。
1723年 享保8年 足高の制
1723年 享保8年 長瀞騒動(長瀞質地騒動) 幕府が発した流地禁止令を契機に、天領だった出羽国長瀞村の百姓らが傘連判状をとって質流れの田畑を取り戻すべく名主を脅したため、新兵衛および喜右衛門が磔になるなど百姓多数が処罰され、流地禁止令も撤回された。
1724年 享保9年 出羽国(秋田県)坊沢村で村入用をめぐり肝煎と対立した成田喜兵衛ら(五義民)が久保田藩に直訴し処刑される。
1725年 享保10年 享保一揆 但馬国(兵庫県)楽音寺村の松岡新右衛門、年貢減免を求めて生野代官所に嘆願、後に江戸で越訴して八丈島に遠島となる。
1726年 享保11年 山中一揆 津山藩主が夭折し減封が見込まれる中、大庄屋や藩役人が郷蔵の米を持ち出そうとした事件を契機に、美作国(岡山県)山中地方で4千人規模の惣百姓一揆が発生、鎮圧過程で51人が処刑され、翌年に山中地方は幕府領となる。
1729年 享保14年 享保信達一揆 幕府代官・岡田庄太夫による定免法採用と年貢増徴に反発し、陸奥国(福島県)信達地方の百姓が代官所に強訴、江戸でも佐原村の佐藤太郎右衛門が目安箱に訴状を投入。太郎右衛門は打首獄門となる。
1731年 享保16年 丹波国(兵庫県)福住村の白井半左衛門、灌漑・防災用水を開削するも無断工事として大庄屋に訴えられ、篠山藩により死罪闕所に処せられる。
1732年 享保17年 享保の大飢饉
1732年 享保17年 出雲国(島根県)松寄下村庄屋の宅和伊助、蝗害による年貢減免を松江藩に求めるも、虚言を弄し一揆を企てたとして処刑される。
1733年 享保18年 享保一揆 丹後国(京都府)二箇村大庄屋・赤松源右衛門ら、飢饉に際して田辺城下で年貢率引下げや夫食米貸与を要求し認められるが、田辺藩により獄門に処せられる。
1734年 享保19年 享保の強訴 丹波国(京都府)石場村庄屋・本田又左衛門、年貢増徴に反対して福知山城下に強訴、要求を認めさせるが、死亡後に露見したため死骸を打首にされる。
享保年間 常陸国(茨城県)三反田村庄屋の平沢佐七が飢饉に際して水戸藩の郷蔵を無断で開放し百姓に穀物を分け与えて切腹。
1738年 元文3年 磐城平藩元文一揆 陸奥国(福島県)磐城平藩の課税強化に反対する吉田長次兵衛ら2万人が城下に押し寄せ町会所などを打ちこわした。藩は百姓の要求を受け入れるも後に指導者を逮捕・処刑。この一揆が原因で内藤家は日向国に転封。
1738年 元文3年 生野一揆 但馬国(兵庫県)生野代官所支配の村々が年貢減免や夫食拝借を求め代官所に強訴、要求は認められるも、年寄役・小山弥兵衛ら多数が死罪・遠島などの処罰を受ける。
1739年 元文4年 播磨国(兵庫県)の旗本・松井氏領の貧困百姓多数が乞食姿で平福宿に押し掛け往来を妨害し酒食を強要、正吉村百姓の牛右衛門が張本人として死罪の上家財闕所となる。
1739年 元文4年 元文一揆 凶作にもかかわらず請免制による厳しい年貢取立てが行われた鳥取藩領で5万人規模の惣百姓一揆が勃発、因幡国(鳥取県)東村の松田勘右衛門らが処刑される。
1739年 元文4年 勝北非人騒動 不作が続く美作国(岡山県)勝北郡の幕府領で百姓3千人が蜂起、非人の扮装で富家に押し掛け米や金銭を要求し、鎮圧後に北野村与三衛門・藤九郎が斬罪となる。
1741年 寛保元年 下野国(栃木県)板倉村の百姓らが年貢減免を求め代官所への強訴を企図、説得に当たった堀江六之丞が頭取とみなされ処刑される。夫の無実を江戸表に訴えた妻よねも処刑されたと伝わる。
1742年 寛保2年 公事方御定書
1745年 延享2年 石見国(島根県)柳村の蔵方・吉松仁右衛門が上納紙を巡る庄屋の不正を代官に告発、藩主にも直訴しようとして捕縛され、この年処刑されたという。
1746年 延享3年 馬原騒動 豊後国(大分県)馬原村庄屋・穴井六郎右衛門、年貢減免と夫食米借用を求めて江戸で越訴に及び、一旦帰国するも代官に捕らえられ死罪獄門に処せられる。
1748年 寛延元年 播磨寛延一揆 播磨国(兵庫県)姫路藩領では凶作や御用金賦課により百姓の負担が増大し、翌年にかけて1万人規模の全藩一揆が発生、鎮圧後に古知之庄村滑の甚兵衛が磔となるなど多数が処罰される。
1749年 寛延2年 寛延信達騒動 新任の桑折代官・神山三郎左衛門が凶作下で年貢増徴を行ったため、陸奥国(福島県)信達地方の農民が代官所に強訴、要求は実現したが長倉村組頭・斎藤彦内らが獄門となる。半井桃水の小説『天狗廻状』で有名。
1749年 寛延2年 戸塚騒動 連年の不作で陸奥国(福島県)戸塚村百姓が中心となり塙代官所に年貢延納や金米拝借を求め強訴、翌年2千人が代官所を包囲し代官・筧伝五郎を切腹に追い込んだと伝わる。頭取・善兵衛の獄門ほか多数が処罰された。
1749年 寛延2年 山外郷一揆 常陸国(茨城県)笠間藩では凶作下で定免法への切替えを強行したため、磯部村名主で磯部神社神主の清太夫ら山外郷27か村1千人が城下で強訴。藩主病没の混乱下で要求を認めた藩はその後態度を一変して清太夫を処刑。
1750年 寛延3年 上総国(千葉県)深堀村組頭の最首杢右衛門が御用金の用捨願いのため旗本・阿部正甫の江戸屋敷で門訴し斬首される。
1750年 寛延3年 佐渡寛延一揆 佐渡国(新潟県)辰巳村百姓・本間太郎右衛門が佐渡奉行所の悪政を掲げた訴状を江戸の勘定奉行に提出、佐渡奉行は免職となるが太郎右衛門も死罪となる。
1750年 寛延3年 西讃百姓一揆 讃岐国(香川県)丸亀・多度津藩領で飢饉による年貢減免を巡って6万5千人規模の大一揆が起こり、善通寺での会見で藩は要求の多くを認めるものの、後に笠岡村の大西権兵衛らが処刑される。
1750年 寛延3年 米倉騒動 甲斐国八代郡米倉村(今の山梨県笛吹市)百姓・平七が、蚕と煙草の運上(税)を新設し、自分がその請負人となるべきことを甲府代官所に願い出たことから、これに反発した八代・山梨両郡惣百姓2万人が徒党して平七宅を打ちこわした。発頭人らは江戸での吟味中に疫病のためすべて牢死。
1751年 宝暦元年 田村騒動 松代藩では浪人の田村半右衛門を勝手掛に登用して財政建直しを図るが、検見をしない代わりに年貢1割5分増とする性急な増税に反発した百姓による全藩一揆が発生した。家老職の恩田木工(恩田民親)の取計いで一揆首謀者の犠牲を出さずに田村の罷免が決まり、後の恩田による宝暦改革につながった。
1752年 宝暦2年 芋八騒動 三河国(愛知県)挙母藩領の百姓が江戸藩邸で強訴、税の減免や3年間の定免制を認めさせるが、頭取として飯野村の山本八兵衛らが捕縛され打首となる。
1753年 宝暦3年 芝村騒動 大和国(奈良県)土市郡で年貢減免を求める百姓らが京都町奉行に越訴。多数が牢死し、常盤村庄屋・彦市が死罪、八条村庄屋・与十郎らが遠島となる。
1753年 宝暦3年 西条三万石騒動 伊予国(愛媛県)西条藩領で増税に反対する新居郡内の百姓が藩庁に強訴、定免法の採用などで要求は認められるも、郷村の村上平兵衛ら頭取3人が処刑される。
1754年 宝暦4年 田野口領一揆 信濃国(長野県)田野口村で年貢減免を求める百姓が大給藩陣屋に強訴、その一部が江戸出訴を企て、頭取とみなされた割元・小林孫左衛門が打首となる。
1754年 宝暦4年 郡上一揆 美濃国(岐阜県)郡上藩による定免法から検見法への変更に反対した領民が八幡城下で強訴、その後幕府老中への駕籠訴、評定所での吟味を経て金森家が改易される。一揆の頭取として前谷村の三原定次郎ら多数の百姓が死罪・遠島・追放などの刑に処せられる。
1754年 宝暦4年 久留米藩大一揆 久留米藩の人別銀賦課に反発し、数万人規模の全藩一揆が勃発、藩は人別銀を撤回するも、責任追及のため300人以上が捕縛され、御原郡大庄屋・高松八郎兵衛はじめ37人が処刑される。
1755年 宝暦5年 津野山一揆 土佐国(高知県)梼原村の百姓らが土佐藩の専売制や特権商人に憤り不穏となる中、藩庁に訴願しようとした庄屋・中平善之進が徒党強訴の嫌疑で斬首となる。
1756年 宝暦6年 源五騒動 能登国(石川県)で物価高と飢饉にあえぐ百姓らが宇出津組の十村役・源五宅を打ちこわす。
1756年 宝暦6年 藍玉一揆 徳島藩による藍専売制強化を巡り、阿波国(徳島県)の藍作農家が徳島城下への強訴を計画、高原村の先規奉公人・山口吉左衛門らが未遂のまま捕縛され磔となる。
1757年 宝暦7年 北市騒動 凶作による米価高騰を機に越中国(富山県)城端町の米屋が打ちこわされ、頭取として北市村源右衛門らが処刑される。
1758年 宝暦8年 重清騒動 阿波国(徳島連)重清村の組頭庄屋の不正を組頭の妻・お秀が徳島藩家老に直訴、組頭庄屋は追放されるが、お秀も鮎喰河原で打首となる。
1761年 宝暦11年 上田騒動 信濃国(長野県)上田藩領で年貢減免や役人罷免を求める惣百姓一揆が発生、家老が江戸表に注進することを約束して上田城下での打ちこわしは終息する。頭取として夫神村百姓・清水半平らが死罪となる。
1762年 宝暦12年 千人講騒動 財政難の飯田藩では郡奉行・黒須楠右衛門の発案により千人講の運営が始まるが、本来は相互扶助制度のはずが、村高に応じた強制醵金となったために百姓が反発し、城下で打毀しが発生、黒須は罷免され、百姓側でも入牢や手鎖などの処罰者が出た。
1764年 明和元年 籾摺騒動 下野国(栃木県)宇都宮藩の年貢増徴に反対して百姓4万5千人が城下で打ちこわしを行う。頭取として御田長島村庄屋の鈴木源之丞らが打首となる。/伝馬騒動
1764年 明和元年 伝馬騒動 幕府が中山道沿いに増助郷を課したことへの反発から、武蔵・上野・信濃・下野4か国20万人の大一揆が勃発、宿場町を打ちこわし江戸に向け進撃したため、幕府は増助郷を撤回し、関村名主・遠藤兵内を首謀者として処刑。
1764年 明和元年 播磨国(兵庫県)熊野部村庄屋の夏梅太郎右衛門、生野代官に減税をたびたび嘆願、この年に村内で火刑に処せられるが、苛政は止んだという。
1766年 明和3年 盛枡騒動 大垣藩の年貢増徴策に対して美濃国(岐阜県)池田筋などの農民が決起、盛枡廃止や救米を要求して認められるも、頭取4人が処刑される。
1767年 明和4年 佐渡明和一揆 佐渡国(新潟県)で佐渡代官所の苛政に反発した農民らが一揆を企てるが未遂に終わり、頭取として遍照坊智専が死罪となる。
1768年 明和5年 新潟明和騒動 長岡藩が賦課した御用金を巡り、越後国(新潟県)新潟町で大規模な打ちこわしが発生した結果、町中惣代の湧井藤四郎らを中心に住民自治が始まるが、最終的に藤四郎らは藩に捕縛され獄門となる。
1768年 明和5年 今泉打ちこわし 越前国(福井県)今泉浦で米価高騰の折に米を移出しようとした船主の館が打ちこわされ、頭取として赤萩村の橋本弥太夫らが処刑される。
1768年 明和5年 亀山騒動 伊勢国(三重県)亀山藩領の百姓5千人以上が藩の年貢増徴に反対して一揆を起こし、代官罷免などを認めさせるが、頭取の辺法寺村喜八らが斬罪となる。
1768年 明和5年 明和の越前大一揆 福井藩による相次ぐ御用金賦課や米価高騰などに端を発し、大庄屋の松岡勘十郎・篠田惣兵衛らの指導のもと、最大2万人ほどが福井城下に乱入して豪商の屋敷を徹底的に打ちこわした。藩は勢いに乗る一揆指導者の処分がほとんどできず、要求の多くを認めたほか、逆に家老・酒井外記らを御役御免とした。
1769年 明和6年 郷中騒動 河内国(大阪府)丹南藩領で不作を理由に年貢納入を拒否した村役人らが入牢させられ、北野田村庄屋・井上吉右衛門が役儀追放となるなど多くが処罰を受ける。
1770年 明和7年 西領騒動 安房国(千葉県)金尾谷村名主の忍足佐内らが年貢減免や腐敗役人の罷免を求めて勝山藩主・酒井忠隣の江戸屋敷に訴願し打首となる。その後親族が幕府老中に駕籠訴してようやく奉行らの追放が実現した。
1770年 明和7年 明和一揆 備後国(広島県)福山藩領で凶作下での年貢増徴に反対する一揆が起こり、借銀の年賦払いなどが認められるものの、下竹田村庄屋・定藤仙助らが打首獄門となる。
1770年 明和7年 蔵川騒動 凶作が続く大洲藩領の伊予国(愛媛県)蔵川村で百姓が宇和島藩領に逃散、吉右衛門・新之丞が頭取として名乗り出て斬罪の上荒間地峠に梟首される。
1771年 明和8年 大原騒動 飛騨代官(郡代)である大原彦四郎・亀五郎父子の悪政に対して明和・安永・天明の各時期に一揆が発生。検地強化を巡る安永騒動が最大で1万人が参加するが、本郷村の万葉善九郎ら頭取が獄門となるなど百姓側に多大な犠牲を出す。
1771年 明和8年 虹の松原一揆 唐津藩の年貢増徴に反発した農漁民2万5千人が蜂起し虹の松原に集結、要求は認められるが、頭取として平原村庄屋・冨原才治らが処刑される。
1772年 安永元年 田沼意次が老中になる
1774年 安永3年 杉田玄白が『解体新書』を出版
1774年 安永3年 三河国(愛知県)高足村庄屋・源吉が吉田藩に年貢減免の嘆願を繰り返し、この年に減免が認められるが、源吉は長らく入牢の末に病死する。
1777年 安永6年 安永中野騒動 年貢皆済期日の前倒しを命じられた信濃国(長野県)中野陣屋支配の村々が蜂起するも近隣諸藩の出兵で鎮圧され、頭取として上新田村藤助らが獄門となる。
1778年 安永7年 助六一揆 過重な年貢や助郷役の負担に耐えかねた常陸国(茨城県)新治郡の本堂氏領25か村の百姓が江戸屋敷に強訴、下佐谷村の福田助六が頭取として獄門となった。
1779年 安永8年 三河国(愛知県)安城村庄屋・中川覚右衛門、領主の久永内記に年貢減免を嘆願するも認められず郷倉で切腹、感嘆した領主は年貢を減免し救米を施す。
1781年 天明元年 絹一揆 上野・武蔵両国で開かれていた絹市への改料徴収に対し、副業で絹織物を生産していた百姓が反発して打毀しが発生、一揆勢が高崎城を包囲したが、幕府が絹改会所の廃止を決めたので終息した。一揆の頭取として白倉村清助が八丈島に遠島となった。
1782年 天明2年 天明の大飢饉(~1787年)
1782年 天明2年 縄騒動 淡路国(兵庫県)淡路島で縄供出や木綿の専売強化を巡り多数の農民が庄屋宅に押し掛け、新法は廃止されるものの、広田宮村の中筋才蔵らが斬首獄門となる。
1782年 天明2年 天明二年桑名藩一揆 桑名藩領では初夏に洪水が相次ぎ不作となる中、藩による検地や御用金賦課などに不満をもった百姓が徒党を組んで山目付、郷目付、庄屋宅などを襲い、員弁郡より波及して3万人規模の全藩一揆となった。
1783年 天明3年 御厨一揆 駿河国(静岡県)駿東郡の百姓が小田原藩に年貢減免の強訴を企て、途中で説得に応じ帰村する。減免は僅かに認められるも萩原村の野木久右衛門が死罪となる。
1784年 天明4年 敦賀打ちこわし一揆 越前国(福井県)小浜藩領の敦賀町で米価高騰に反発する打ちこわしが発生、頭取の杉箸村甚三郎らが処刑されるが、安値米の販売や施粥などが進む。
1784年 天明4年 天明山中騒動 信濃国(長野県)松代藩領の山中地方の農民が大挙して酒屋に押借しつつ城下に迫るが、藩役人と交渉して解散。地京原村の北沢清兵衛が頭取として永牢となる。
1785年 天明5年 上総国(千葉県)金谷村百姓の諸岡太左衛門が在地役人の横暴を旗本・白須政雍の江戸屋敷に門訴、年貢増徴などの取止めが決まるが、太左衛門は入牢の上獄死。
1785年 天明5年 伏見騒動 山城国(京都府)伏見奉行・小堀政方による御用金の賦課を元町年寄の文殊九助ら7人が寺社奉行に直訴し、小堀家は改易されたが、7人も全員が病死又は牢死する。
1786年 天明6年 天明一揆 備後国(広島県)福山藩領で重税に耐えかねた百姓が蜂起、いったん沈静化するも翌年再燃し、結果として未進年貢の帳消しや綿会所廃止などの要求が認められる。
1786年 天明6年 恵蘇郡一揆 備後国(広島県)恵蘇郡で飢饉と村役人の不正を理由に百姓が蜂起、5千人が山王原に集結して藩に願書を提出するも、小和田組源右衛門らが獄門となる。
1787年 天明7年 松平定信が老中になる
1787年 天明7年 寛政の改革
1787年 天明7年 土平治騒動 天明の飢饉の中、相模国津久井郡・愛甲郡で米の買占めをしていると見られた造酒屋が打毀しにあい、牧野村専蔵(通称は土平治)、青野原村十郎兵衛(伴蔵)、同村利左衛門の3人が頭取として死罪になった。
1789年 寛政元年 棄捐令
1790年 寛政2年 寛政異学の禁
1791年 寛政3年 天領から長岡藩領への所替えを機に越後国(新潟県)浦村組頭・岡村権左衛門らが年貢減免を代官所に訴えるが、徒党強訴の罪により打首獄門に処せられる。
1792年 寛政4年 ロシア使節ラクスマンが根室に来航
1792年 寛政4年 太枡騒動 甲斐国(山梨県)田安領で金田村長百姓・金子重右衛門らが年貢徴収に係る代官所の不正を幕府に越訴、田安家に身柄引渡しの上処刑される。
1793年 寛政5年 武左衛門一揆 伊予国(愛媛県)吉田藩の紙専売制に反対し、上大野村百姓・武左衛門らの扇動で1万人が宇和島城下に迫る。吉田藩家老・安藤継明の切腹を経て、宇和島藩の仲介で百姓の要求は果たされるが、武左衛門は獄門となる。
1794年 寛政6年 武蔵国(東京都)高幡村の平藤治が困窮農民のため親類の名主に年貢減免を掛け合い入牢、釈放前日に毒殺される。
1796年 寛政8年 安濃津地割騒動 伊勢国(三重県)で均田制により田畑を失うことを恐れた百姓3万人が津城下で強訴、均田制は中止されるが谷杣村庄屋・町井友之丞らが頭取として打首になる。
1798年 寛政10年 浅川騒動 高田藩領である陸奥国(福島県)浅川陣屋支配の村々で、大庄屋や駒付役らによる年貢諸役の私的流用に憤った百姓が蜂起し陣屋役人と交戦。大庄屋らは罷免されたが、一揆首謀者として上野出島村の大竹半十郎が打首となる。
1800年 寛政12年 丹波国(兵庫県)市原村の清兵衛、篠山藩の出稼ぎ禁止令で杜氏らが困窮していると篠山藩主・青山忠裕に直訴し入牢するが、禁令は緩和される。
1801年 享和元年 享和元年羽州村山一揆 前年からの不作により米価の高騰や買い占めが発生したため、出羽国村山郡内の幕府領・藩領・寺領の農民数万人が蜂起し、天童村などに押し寄せて米商人や豪農の家を打ちこわした。
1804年 文化元年 ロシア使節レザノフが長崎に来航
1804年 文化元年 牛久助郷一揆 水戸街道での助郷拡大に反対し、小池村勇七らが頭取となり、女化原に6千人が集まる一揆が発生、助郷拡大を推進した牛久宿の麻屋治左衛門宅などを打ちこわす。
1806年 文化3年 越中国(富山県)四方町の町年寄・栂野彦八、漁民による行商を禁じた郡奉行を諫めるため切腹し、奉行は罷免される。
1808年 文化5年 間宮林蔵が樺太探検
1809年 文化6年 信濃国(長野県)入奈良本村の百姓が宿場の新建反対と庄屋の非違を訴願するため上田城下に押し寄せ、頭取の堀内勇吉が永牢となる。
1809年 文化6年 紙問屋騒動 飯田藩では伊那郡毛賀村(今の長野県飯田市)の豪農・林新作に紙問屋の許可を与えるが、問屋改印のない紙は流通できなくなることから町方商人や紙漉らが反発して撤回された。ところが運上収入を期待した藩により後に同じ条件で町方商人に紙問屋設立が認められたため、林新作宅の打毀しを含む騒動に発展、領内の紙漉などが入牢や手鎖の処罰を受けた。
1811年 文化8年 岡藩文化大一揆 岡藩では御勝手方・横山甚助により年貢増徴・専売強化を柱とする新法が推し進められたが、これに反対する四原(よはる:今の大分県竹田市)の百姓2千人が決起、竹田城下に押し寄せ強訴に及んだ。藩は横山を罷免し、百姓の要求をほぼ認めて領内の事態を収束させたが、これを契機に府内藩や臼杵藩にも一揆が拡大した。何者かが「四原大明神」の高札を建てたことから世直し一揆のはしりとされる。
1811年 文化8年 大杉沢騒動 越前国勝山藩で杉の伐採が天候不順や水害の原因との風評が立ち、領内外の多数の百姓が勝山町に押しかけ材木商などの打毀しを行った。勝山藩は藩兵を出動させたが鎮圧はせず、城下の寺院に説得を依頼し、杉伐採・炭焼きの禁止と物価の適正化の要求を認めた。一揆参加者が簑笠姿だったことから「蓑虫騒動」とも呼ばれる。
1812年 文化9年 文化一揆 重税に苦しむ豊後国(大分県)海部郡の山間部の百姓ら、願望拾ヶ条を掲げ強訴に及び、佐伯藩は願いを認めるも、頭取の因尾村百姓・杢右衛門らを刎首獄門とする。
1812年 文化9年 文化一揆 豊前国(大分県)で井堰工事に係る加免や新税賦課に反対する百姓が蜂起、庄屋宅などを打ちこわし、下赤尾村丹治らが処刑される。
1813年 文化10年 民次郎一揆 陸奥国(青森県)弘前藩の百姓2千人が城下に押しかけ年貢減免などを強訴。藩は蔵米放出や年貢減免などを決めるが、鬼沢村の藤田民次郎を首謀者として斬首。
1816年 文化13年 駿河国(静岡県)西熊野堂村庄屋・山田源次郎が年貢減免を求め沼津藩主に直訴して入牢、病気により出牢した直後に死去する。
1816年 文化13年 蓑着一揆 駿河国(静岡県)田中藩領で凶作を機に藤枝宿の打ちこわしが発生、細島村名主・増田五郎右衛門が農民をなだめて藩主に年貢減免を直訴し打首となる。
1817年 文化14年 生板一揆 凶作に見舞われた常陸国(茨城県)生板村の百姓・片岡万平らが代官・吉岡次郎右衛門の屋敷に門訴、さらに勘定奉行に越訴して獄死。
1818年 文政元年 竜門騒動 大和国(奈良県)竜門郷の旗本・中坊氏領で年貢増徴に反対する百姓らが平尾代官所に押し掛け代官を殺害、西谷村又兵衛が獄門となる。
1819年 文政2年 壱岐国(長崎県)可須村百姓・岩本源三、地割奉行の不正を江戸で将軍に直訴、平戸藩への護送後に処刑される。
1821年 文政4年 『大日本沿海與地全図』(伊能図)完成
1821年 文政4年 紀伊国(和歌山県)朝来村の三兵衛、郡奉行・代官による二重の毛見を無益と訴え入牢させられる。簀巻きにされ海中に沈められたとの伝説もある。
1822年 文政5年 文政一揆 丹後国(京都府)宮津藩領で年貢先納や新税賦課に反対する数万人の百姓が城下に押し掛け、要求を実現するものの、頭取の吉田新兵衛・為治郎が討首となる。
1822年 文政5年 わらじ騒動 信濃国高遠藩では、藩主・内藤頼寧の大阪加番に伴う費用捻出のため、男は毎日わらじ2足、女は1軒当たり木綿1反の供出を領内に命じたことから1万人規模の全藩一揆が発生、考案者で郡代の興津紋左衛門が蟄居閉門を命じられた。
1823年 文政6年 桑名藩文政一揆 三方領知替えで桑名藩主・松平忠堯が武蔵忍藩に移封を命じられたことに伴い、助成講の掛金が返還されないことを危惧した農民が城下に押しかけ、やがて数万人規模の全藩一揆に発展し、庄屋宅の打ちこわしなどが行われた。近隣諸藩や美濃笠松代官所の加勢を得て鎮圧され、掛金の一部返還、庄屋役替などの要求は認められたが、丹生川村源左衛門、石榑(いしぐれ)村文左衛門、田光村政右衛門の3人が死罪となった。
1825年 文政8年 赤蓑騒動 信濃国(長野県)四ヶ庄平の貧農らが赤毛の蓑を着て大町宿などの酒屋や米屋を打ちこわし松本藩により鎮圧される。頭取として三日市場村和左衛門らが永牢となる。
1831年 天保2年 防長大一揆 長州藩の専売制強化に絡み、周防・長門(山口県)両国にまたがる10万人規模の全藩一揆が発生、各地の庄屋宅などが打ちこわされる。藩兵が鎮圧に当たり、吉部村畔頭・片山弥右衛門らが誅罰(死刑)となる。
1833年 天保4年 天保の大飢饉(~1839年)
1834年 天保5年 水野忠邦が老中となる
1834年 天保5年 志戸崎騒動 常陸国(茨城県)坂村名主が土浦藩代官と結託して不正を企てた疑惑を調べていた百姓・貝塚恒助が捕縛されたため、東郷名主惣代・細野冉兵衛が逆に役人を捕縛。冉兵衛は牢死、恒助は打首となるが庄屋らは排除された。
1836年 天保7年 郡内騒動 米価高騰に悩む甲斐国(山梨県)郡内地方の百姓が下和田村の森武七を頭取に米商人から押借をしようと決起するが、途中で無宿人が参加するなどして統制が乱れ、甲斐全土にわたる打ちこわしへと発展する。
1836年 天保7年 加茂一揆 三河国(愛知県)加茂郡で凶作や米価高騰を機に一揆が勃発、額田郡を合わせ1万人規模に拡大し、頭取の松平辰蔵のもと世直しを称して酒屋などを打ちこわしながら挙母城下に迫るが、鉄砲隊により鎮圧される。
1837年 天保8年 生田万の乱 天保の飢饉による惨状を憂いた国学者・生田万が同志を募り越後国(新潟県)にあった桑名藩の柏崎陣屋を襲撃、長岡藩の加勢により鎮圧される。
1837年 天保8年 飯山騒動 信濃国(長野県)飯山藩領の百姓が年貢減免を藩庁に要求するとともに豪農の屋敷を打ちこわし、「無実之罪」を主張する浅野村の豪農・西原九兵衛が獄門となる。
1837年 天保8年 大塩平八郎の乱 天保の飢饉に対する幕府の無策と私欲に走る豪商らに憤慨し、元大坂町奉行与力で陽明学者の大塩平八郎が門人らとともに大坂市中で反乱を起こし鎮圧される。
1837年 天保8年 能勢騒動 大塩平八郎の乱に触発された山田屋大助ら、徳政を求めて摂津国(大阪府)能勢郡で決起、「徳政大塩味方」の幟を掲げ打ちこわしを行うが、追手に包囲され討死する。
1838年 天保9年 佐渡一国一揆 佐渡国(新潟県)を訪れた幕府巡見使に対し、佐渡一国惣代として上山田村百姓・中川善兵衛が佐渡奉行の苛政を訴えるも捕縛される。これを契機に数万人が小木町の問屋や米屋などを打ちこわす一揆に発展する。
1838年 天保9年 加賀国(石川県)石川・砺波両郡の肝煎らが凶作を理由に秋縮御請を拒否し、5人の庄屋が獄死、10人の庄屋は出獄するも一族113人が五箇山に流刑となる。
1839年 天保10年 蛮社の獄
1840年 天保11年 豊後国(大分県)黍野組庄屋・佐土原基右衛門、臼杵藩による組替えに反対して代官に訴願するも受け入れられず、自宅で切腹したと伝わる。
1841年 天保12年 天保の改革
1841年 天保12年 株仲間の解散
1841年 天保12年 茸山(なばやま)騒動 人吉藩では家老・田代善右衛門政典の下で種々の藩政改革が行われたが、豊後国から茸山師を招いての椎茸栽培は成功し、専売制により利潤を上げた。しかし茸山への立入りを禁じたことから農民の反感を買い、数万人が蜂起して人吉城下で打毀しを行った。田代と対立していた門葉派の家老・相良左仲頼直の策謀もあり、田代政典は責任を負い自ら切腹して果てたため、騒動は沈静化し、座の特権も廃止された。
1842年 天保13年 近江天保一揆 幕府による検地の不正に憤慨して琵琶湖周辺で百姓4万人が蜂起、見分役人は三上山の洞窟に逃亡し、検地の「十万日日延べ」証文を勝ち取るが、後日の取調べで発頭人の三上村庄屋・土川平兵衛ら多くが牢死する。
1842年 天保13年 上郡一揆 重税や煙草栽培の統制への不満から阿波国(徳島県)で山城谷の百姓逃散や加茂山周辺の打ちこわしが発生、各地に拡大し徳島藩領最大の一揆となり、藩は要求を認めるも、一揆の先頭に立った坂東町次郎らが処刑される。
1843年 天保14年 人返し令
1844年 弘化元年 大山騒動 出羽国(山形県)大山地方を庄内藩預地とする幕命が下り、増税を恐れた幕府領73か村の百姓数千人が一揆を起こす。造り酒屋の加賀屋弥左衛門が獄門になる。
1847年 弘化4年 弘化三閉伊一揆 陸奥国(岩手県)盛岡藩主・南部利済の悪政に対し、三閉伊通の百姓1万人以上が決起、佐々木弥五兵衛指導のもと新税撤廃などを要求し遠野城下に強訴。藩は百姓の要求を認め、藩主は隠居する。
1847年 弘化4年 弘化の大一揆 肥後国(熊本県)天草地方で百姓相続方仕法の延長を巡る1万5千人規模の一揆が発生、銀主の打ちこわしを行い、頭取の古江村庄屋・永田隆三郎が処刑される。
1853年 嘉永6年 浦賀にペリーの黒船来航
1853年 嘉永6年 ロシア使節プチャーチンが長崎に来航
1853年 嘉永6年 嘉永三閉伊一揆 弘化三閉伊一揆の佐々木弥五兵衛が牢死、南部利済は復権して院政を敷いたため、畠山太助や三浦命助を頭取に1万6千人が仙台藩に越訴、年貢減免などの要求を認めさせる。
1854年 安政元年 日米和親条約
1854年 安政元年 多良間騒動(アコーメ事件) 琉球国多良間島では、砂川大主らの役人が二重課税で私服を肥やしていたため、蒲戸砂川らが島を脱出して首里王府に直訴した。不正役人は処罰され、生命を惜しまず島民の苦を救ったとして蒲戸砂川らが官位を賜った。
1856年 安政3年 駿河国(静岡県)三保村の藤五郎、安政地震で隆起した海岸の新開を領主の御穂神社に願うも認められず、幕府代官に越訴したところ、別件で投獄の末に毒殺される。
1858年 安政5年 日米修好通商条約
1858年 安政5年 安政の大獄
1858年 安政5年 長崎村茂右衛門騒動 加賀藩領内の米価高騰を理由に越中国(富山県)五箇山地方の農民らが井波町で打ちこわしを行い、頭取として長崎村茂右衛門が磔刑に処せられる。
1858年 安政5年 輪島騒動 米価高騰を受けて能登国(石川県)輪島町の米屋や役人宅が打ちこわしの被害に遭い、米価統制や安値米の販売で沈静化するが、頭取の当代屋与次兵衛らは獄門となる。
1858年 安政5年 安政の泣き一揆 米価高騰に苦しむ町民が卯辰山に登り金沢城に向かって「ひもじい」などと泣き叫び、能美屋佐吉ら頭取5人が処刑されるが、これが三州大一揆の発端となる。
1859年 安政6年 南山一揆 天領から白河藩領となり年貢負担が増大した信濃国(長野県)南山郷で今田村庄屋・小木曽猪兵衛の指導のもと農民が蜂起、代官罷免と天領並み相場の石代納を実現する。
安政年間 周防国(山口県)玖珂代官が税を私物化して奢侈に耽ったため、地元で大年寄格を世襲する田坂家の田坂市良右衛門が諫言し、遠島に処せられる。村民の訴えにより後に赦され、刀祢として善政を敷く。
1860年 万延元年 市川騒動 福知山藩の専売制強化に憤る義賊・松岡半十郎が専売所を襲い、直後に大規模な百姓一揆が勃発、家老は切腹し藩も要求を認めるが、周辺他藩に一揆が拡大する。
1860年 万延元年 桜田門外の変
1860年 万延元年 落書事件 島尻与人(村役人)だった波平恵教が、琉球民は重税で困憊しているので薩摩に帰属させて欲しいという趣旨の直訴状を薩摩在番奉行所に届けようとして捕縛され、パイナガマで処刑された。
1860年 万延元年 五千石騒動 飯野藩保科氏の領地だった丹波国天田郡(今の京都府福知山市)で御用銀の負担などに反対する強訴が発生、庄屋らの屋敷を打ちこわして回った。発頭人である上佐々木村の機屋元右衛門・松屋安左衛門は闕所の処分を受けた。
1862年 文久2年 生麦事件
1863年 文久3年 下関事件
1864年 元治元年 犬田布騒動 薩摩藩が支配する徳之島において、専売制が敷かれていた黒糖の密売の嫌疑で百姓の新山為盛が捕らえられ拷問を受けたことを契機に150人規模の一揆が発生、首謀者は遠島となった。
1866年 慶応2年 薩長同盟が結成
1866年 慶応2年 信達世直し騒動 幕府が生糸・蚕種への改印制を導入したことに反発し、陸奥国(福島県)伊達郡・信夫郡の農民らが大規模な打ちこわしを行い要求を認めさせた。一揆の指導者と目された菅野八郎は「世直し大明神」と呼ばれた。
1866年 慶応2年 武州世直し一揆 横浜開港後のインフレによる米価高騰を契機に上武一帯の200か村10万人が参加する一揆が発生、名主・豪商宅の打ちこわしや岩鼻陣屋襲撃を行う。名栗村の大工・島田紋次郎が頭取として死罪と決まるが牢死。
1867年 慶応3年 大政奉還
1868年 慶応3年 王政復古の大号令
1868年 明治元年 戊辰戦争
1868年 明治元年 五箇条の御誓文
1869年 明治2年 版籍奉還
1869年 明治2年 下野国(栃木県)大沢村の板橋政右衛門らが畑年貢の金納を求めて烏山藩や新政府の弾正台に訴願し流刑に処せられる。
1869年 明治2年 ばんどり騒動 金沢藩領の越中国新川郡では、凶作による年貢減免などを求めて2万人規模の百姓が蜂起し、大庄屋にあたる十村の屋敷を打ちこわしたが、藩の銃卒隊に鎮圧された。バンドリは百姓が着ていた蓑のこと。発頭人の新川郡塚越村の宮崎忠次郎は斬罪となった。
1871年 明治4年 廃藩置県
1871年 明治4年 武一騒動 廃藩置県に伴い東京に移住することになった旧広島藩主・浅野長訓を引き留めるため広島城下に数千人が集まったのがきっかけで、やがて郡部の百姓が暴徒化して豪農の屋敷を打ちこわすなどの一揆に発展、首謀者として有田村武一らが処刑された。
1873年 明治6年 徴兵令
1873年 明治6年 地租改正
1873年 明治6年 筑前竹槍一揆 折からの干魃や米価高騰の中、福岡県嘉麻郡の農民が猪膝町の商家などを襲った「猪膝打ちこわし」を端緒として、県内10万人が年貢減免・旧慣維持などを求めて県庁を襲撃する大規模な一揆に発展、熊本鎮台が出兵して鎮圧された。嘉麻郡筒野村(今の福岡県飯塚市)の医師・淵上琢章が絞罪となったのをはじめ多数が処罰され、福岡県参事・水野千波も免官となった。
不詳年 越中国(富山県)の米商人・眼目屋与左衛門が飢饉の際に給人蔵を勝手に開放して米を分け与え、生埋めの刑に処せられたと伝わる。
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村松 風洽(フリーライター)