七義士神社(大西権兵衛と西讃百姓一揆)

七義士神社 義民の史跡
芝居にもなった一揆指導者を祀る神社
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寛延3年(1750)、讃岐国(香川県)丸亀・多度津藩領では飢饉による年貢減免を求めて6万5千人規模の「西讃百姓一揆」が起こり、藩は要求の多くを認めたものの、後に三野郡笠岡村(今の三豊市)の大西権兵衛らが頭取として処刑されました。処刑された7人は「七人同志」として語り継がれ、明治時代に「七義士神社」が創建されるとともに、「権兵衛芝居」も行われるようになりました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代中期の丸亀・多度津両藩では、数年続きの干魃と水害による飢饉が激しく、村役人を通じて年貢減免の嘆願が行われるものの、藩に聞き届けられることはありませんでした。

こうした中で、丸亀藩領の三野郡笠岡村の大西権兵衛を筆頭に、那珂郡帆山村(今の仲多度郡まんのう町)の郷士・小山耕雲斎が開いていた私塾の門下生や縁者が中心となり、笠岡村の宇賀神社の楼門上で謀議を凝らして一揆が画策されたといいます。

寛延3年(1750)正月、村々に廻状が回され、讃岐国三野郡と豊田郡(今の三豊市・観音寺市)の百姓4万5千人余りが蓑笠を着け、鎌や鍬などを持って本山河原に集まり、庄屋などを打ちこわす一揆がついに勃発しました。

鳥坂峠では多度津藩領の那珂郡・多度郡(今の善通寺市・多度津町ほか)の百姓と合流したため、総勢6万5千人ほどが参加する全藩一揆の様相を呈したといいます。

善通寺に押し寄せた一揆勢は丸亀藩大目付役・加納又左衛門らと誕生院で会見し、年貢未進方及び借銀借米の30年無利子返済、村役人の排除など13か条を要求したところ、うち10か条までが認められたために解散しました。

しかし、この頃幕府から強訴・徒党の禁止令が出されたため、約束は反故にされて藩による首謀者追及が始まり、丸亀藩領笠岡村の大西権兵衛・嘉兵衛・弥市郎、帆山村の小山金右衛門が磔、三野郡大野村(今の三豊市)の高橋兵治郎、多度津藩領多度郡碑殿村(今の善通寺市)の甚右衛門、三井村(今の多度津町)の金右衛門が打首獄門と決まり、同年7月28日に金倉河原の刑場(今の丸亀市)などで処刑されました。

この7人のほかにも大西権兵衛の16歳の長男・新五郎、笠岡村に住んでいた大工の平九郎が打首獄門、さらに事件に連座して末はわずか5歳に至るまでの大西権兵衛の倅3人も打首となり、記録に残る死罪の人数は合わせて12人で、加えて多数の農民が入牢や追放の刑に服しました。

48歳の大西権兵衛は「此の世をば泡と見て来し我が心民に代りて今日ぞ嬉しき」と辞世の句を残したとされ、地元では「七人同志」「七人童子」「七義士」として語り伝えられてきました。

処刑された七人童子の胴体は親類縁者に引き渡されたものの、重罪人として領内で埋葬することが許されず、船で高松藩領の香川郡笠居村(今の高松市)まで運んでようやく荼毘に付したといいますが、幕藩体制が終焉を迎えた明治時代に入ると、公に彼らの義挙を顕彰することができるようになります。

そこで明治36年(1903)には笠岡に「七義士神社」が創建され、「権兵衛芝居」なども行われるようになり、芝居は戦後一時中断するものの、昭和の終わりに復活し、神社境内には芝居小屋も建てられました。

参考文献

『西讃百姓一揆始末』(佐々栄三郎 讃文社、1976年)
『香川県史』第3巻 通史編 近世Ⅰ(香川県編 香川県、1989年)
『仲多度郡史』(香川県仲多度郡編 香川県仲多度郡、1918年)
『郷土史事典 笠居郷探訪』(立山信浩 立山信浩、2011年)

七義士神社へのアクセス

名称

七義士神社

場所

香川県三豊市豊中町笠田笠岡3285番地

備考

高松自動車道「さぬき豊中インターチェンジ」から車で3分、国道11号沿いに「権兵衛神社」の社号標がある。

関連する他の史跡

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