らん塔碑(片岡治兵衛と桶伏せの伝承)

らん塔碑 義民の史跡
藩主による理不尽な桶伏せの伝説を語る碑
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慶安元年(1648)、丹波国報恩寺村(今の京都府福知山市)で猪による農作物の被害があり、庄屋・片岡治兵衛が年貢減免を求めたところ、福知山藩主・稲葉紀通の不興を買い、残忍な桶伏せの刑に処せられました。現地には治兵衛一家の法名を刻む墓碑が残されているほか、昭和になって子孫の手により「らん塔碑」も建てられています。

義民伝承の内容と背景

江戸時代初期の慶安元年(1648)のこと、丹波国福知山城主の稲葉紀通は猪狩りを好み、猪が出た場合は城に知らせるよう領内に触を出していました。

報恩寺村庄屋・片岡治兵衛は、村に猪が出現し農作物が被害を被ったとして年貢の減免を求めましたが、紀通が報恩寺村を猪狩りに訪れると、運悪く1頭の猪も姿を見せませんでした。

怒った紀通は庄屋本人と妻・妹・2人の子供の一家あわせて5人を捕らえ、同年7月6日に「桶伏せ」により処刑したといわれています。

また、これに先立つ正保4年(1647)11月28日には、印内村庄屋・島村治右衛門一家も同様の理由で処刑されたという伝説があります。

処刑場跡と伝わる岩坪地蔵近くの「らん塔」と呼ばれる場所には、治兵衛一家とその両親の法名を刻む墓碑が残されており、昭和42年(1967)には治兵衛の子孫が事件の顛末を記した「らん塔碑」をその傍らに建てています。

また、「桶伏せ」という刑罰は、地面に掘った穴に罪人を入れて首だけを地上に出し、桶を被せて死ぬまで放置する刑罰と見られており、江戸時代に真田増誉が記した武家の言行録『明良洪範』には次のようにあります。

○稲葉淡路守紀通は丹州福智山の城主也生得無道残忍にして悪行超過しける或時代官を勤る家士私曲有とて禁獄せしに私曲の虚実も正さず其妻子を始め忌掛る者を皆召捕り庭に穴を堀らせ首計出して其穴へ埋めさせ其首へ小桶を冠せ置毎日小桶を取て見て廻り夫を慰みにせられ追々死するに代官を勤し者のみ未だ死せず淡路守其時云けるは妻子初め類族共は皆死したるに汝一人未だ死なざれば能々因業深き奴哉と嘲哢せしかば其者夫迄は目を閉て居たりしが其詞を聞と両眼を開きて今迄は何卒して存命し此恨みを報ぜんと思ひ居たりしが妻子類族迄死したる上は最早是迄也且仮令我に罪有とも刑罰の仕方は法も有る事なるに斯る刑罰の仕方こそ恨みなれ見よ見よ今に思ひ知らせんとはつたと白眼舌をかみ切てぞ死したりける夫より淡路守乱心して狂ひ廻りしが或日自ら吾身を鉄炮にて打貫きて死しける故家断絶に及ぶ

いずれにしても、稲葉紀通には常軌を逸する行動を窺わせる伝説が多く、幕府公式の歴史書にあたる『徳川実紀』にも、隣藩の宮津藩主・京極高広と諍いを起こした上、通行人を殺害するなどして謀反の嫌疑を受け、ついに「居城にて発狂し自殺せり」との記述があります。

参考文献

『史談ふくち山』第88号(片岡孫九郎ほか 福知山史談会、1959年)
『福知山市史』第2巻(福知山市史編さん委員会編 福知山市役所、1982年)
『福知山市誌』下巻の1(芦田完 福知山市、1965年)

らん塔碑へのアクセス

名称

らん塔碑

場所

京都府福知山市報恩寺地内

備考

舞鶴若狭自動車道「福知山インターチェンジ」から車で15分、又はJR・丹鉄「福知山駅」から京都交通バス25分 、「南報恩寺」バス停下車。京都府道492号私市大江線沿い「報恩寺」バス停脇のブロック塀で囲われた区画内にある。

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