安政義人慰霊之碑(長崎村茂右衛門騒動)

安政義人慰霊之碑
井波の米屋を打ちこわした一揆指導者の碑

義民の史跡

安政5年(1858)、加賀藩領内の米価高騰を理由に、山間部の越中国砺波郡長崎村(今の富山県南砺市)をはじめとする五箇山地方の農民らが井波町(今の南砺市)で打ちこわしを行い、頭取として長崎村茂右衛門が磔刑に処せられました。戦後、かつての刑場跡には地元有志により「安政義人慰霊之碑」が建てられました。

義民伝承の内容と背景

安政5年(1858)はマグニチュード7クラスといわれる「飛越地震」が発生したほか、長雨や降雹などの天候不順も重なり、加賀藩領内では米価の高騰に見舞われました。

越中国砺波郡長崎村ほか山間部の五箇山地方の農民たちも生活苦に陥りますが、特に米不足の中で買占め行為をしているとみられていた米屋への怒りは大きなものがありました。

そこで長崎村百姓・茂兵衛の倅(せがれ)である茂右衛門をはじめとする農民たちは、松明を灯し竹螺(たけぼら)を吹いて閑乗寺山に集結し、7月25日深夜に山を降りて井波町の米屋など4軒を打ちこわして回りました。

うち高瀬屋与右衛門の屋敷で番頭の長七郎に槍で応戦され、九里ケ当村(今の南砺市)市右衛門の弟が絶命したため、怖気付いた一揆勢はそのまま村に引き上げていきました。

これを「長崎村茂右衛門騒動」といいますが、加賀藩ではこの騒動後、利賀谷組に属する村々の組合頭や肝煎を中心に関係者を捕縛して21人を入牢させ、過酷な取調べにより上畠村(今の南砺市)組合頭の松兵衛はじめ12人の牢死者を出しています。

万延元年(1860)10月18日、この騒動の頭取と目された長崎村茂右衛門は、井波町字観音寺地内の高台で磔に処せられました。

『井波町毀方騒動之記』は「一の鑓のかけ声して腋窩より肩先へ突き通し引抜く。次で二の鑓右の腋窩より突き通し、止どめを刺せば囚人の首前に垂れたり。二の鑓を引抜く際、腸脱出して凄惨なり」などと処刑の生々しい様子を描き、その後処刑場跡に塚が築かれると「数ヶ月香花絶えざりけり」と供養に訪れる人の多かったことを伝えています。

戦後の昭和24年(1949)、地元有志によって茂右衛門が処刑された観音寺地内に「安政義人慰霊之碑」が建立され、その後現在地に移設されて玉垣などが整備されました。

旧長崎村の茂右衛門の生家があった跡地は、庄川峡の秘湯といわれる「長崎温泉」の温泉街にありますが、昭和54年(1979)、同様に茂右衛門の慰霊碑が建立されています。

参考文献

『井波町史』上巻(井波町史編纂委員会編 井波町、1970年)
『富山県史』通史編 近世下(富山県編 富山県、1978年)
『利賀村史』2(近世)(利賀村史編纂委員会編 利賀村、1999年)

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安政義人慰霊之碑の場所(地図)と交通アクセス

名称

安政義人慰霊之碑

場所

富山県南砺市井波地内

備考

東海北陸自動車道「福光インターチェンジ」から車で20分。「道の駅井波」の西150メートル、東町公民館の真裏に当たる空地にある。

参考文献のうちリンクを掲げたものについては、通常、リンク先Amazonページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で閲覧できる場合があります。>[参考文献が見つからない場合には]
このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)