和田の佐助顕彰碑(和田佐助の義民伝承)
万治3年(1660)、越中国砺波郡佐野村(今の富山県高岡市)で和田野の町建てを行い、その肝煎となっていた佐助は、困窮農民を救うために隠田開発をし、露見して磔刑に処せられたと伝えられています。後に和田村の地子が免除されたことから「佐助大明神」として祀られ、現在では顕彰碑も建てられています。
義民伝承の内容と背景
加賀藩2代藩主・前田利長は、居城の越中国富山城が火災により焼失したため、新たに射水郡関野の地で築城を行い、城下を「高岡」と名付けて武士や商人、職人を呼び寄せました。そして、一国一城令によって高岡城が廃城になった後も、加賀藩では引き続き商人や職人らを足止めして、高岡を経済都市として発展させる道をとります。
こうした最中の慶安2年(1649)、高岡町奉行に対する砺波郡佐野村佐助の嘆願によって、高岡と金沢とを結ぶ北陸街道沿いの和田野の町立てが許可されることになりました。
しかし、新開地に移り住んだ百姓たちは重税に苦しみ逃散が相次いだため、和田村の肝煎となった佐助は佐野村肝煎・佐次右衛門と共謀し、村を救うために3段歩の隠田を開発し、これが藩に露見して万治3年(1660)に磔によって処刑されたといいます。
処刑の直前、赦免の使者が早馬で駆けつけ、祖父川の橋の羽目板の三枚目を踏んで叫んだものの、執行の合図と聞き間違えて処刑されてしまったので、その橋を「三枚橋」と呼ぶといった言伝えもあります。
町立ての嘆願については、富山大学附属図書館に「利波郡佐野村田地の内、和田野の町立につき願書」として古文書が残ることから史実としては明らかなものの、処刑の一件については不明な点もあります。
しかし、困窮する百姓を見かねての行為として、後に和田村の地租地子が免除されたため、村では佐助大明神と仰いで「御印祭」をする風習が生まれたといい、現在でも町立てが許可された10月15日(元は旧暦で9月15日)には地元にある和田神明宮の佐助殿に佐助の好物だった「いもがい餅」(里芋と米を炊いて潰し、きな粉や餡をまぶしたおはぎの一種)が供えられるほか、町内の軒先にも行灯が掲げられます。
参考文献
『日本風俗志』第3(加藤咄堂 大東出版社、1941年)
『越中史料』巻之二(富山県 富山県、1909年)
和田の佐助顕彰碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
和田の佐助顕彰碑
場所
富山県高岡市和田地内
備考
能越自動車道「高岡インターチェンジ」から車で5分。国道8号に並行する富山県道254号立野鴨島線沿いの神明宮境内東側にある。