板屋原神社(佐土原基右衛門の切腹死事件)

板屋原神社 義民の史跡
藩に抗して切腹したと伝わる大庄屋を神に祀る
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江戸時代の天保年間、豊後国(今の大分県)黍野組の大庄屋・佐土原基右衛門は、飢饉を理由に臼杵藩の代官に年貢減免を訴願するものの認められませんでした。さらに藩では黍野組の組替えも強行しようとしたことから、無念に思った佐土原基右衛門は、天保11年(1840)に自宅で切腹して果てました。基右衛門はその後稲荷社に祀られ、現在は他社と合祀されて板屋原神社となっています。

義民伝承の内容と背景

江戸時代後期の天保年間、凶作により飢饉に苦しむ豊後国大野郡野津郷の黍野(きびの)組では、16か村を預かる大庄屋の佐土原基右衛門が野津市の代官・狭間安太夫に対して年貢減免を嘆願するものの受け入れられませんでした。

ちょうどそのころ、藩命により野津郷の田中組・川登組・黍野組から一部を割いて寺小路組を新設する組替えがあり、これに反発した百姓らは年貢未進により対抗しようとしていました。

佐土原基右衛門は他の庄屋とも相談の上、百姓の憂慮は理屈が通っているとして、代官に組替えをやめるよう訴願しますが、代官は大いに叱責するのみでした。

これを無念に思った基右衛門は、天保11年(1840)2月29日、「思いきや心のたても果たさずて死するうらみぞいつかはれなむ」という辞世を遺し、自宅の仏間において切腹して果てたといいます。

その後、野津郷においては火災が頻発し、代官も長く病気を患い、これらが基右衛門の怨霊の仕業とされたことから、嘉永3年(1850)4月26日、鎮火のために寺小路組内の3か所に稲荷社を勧請することが臼杵藩より認められました。

この稲荷社は、領民の間では神号を「大将軍」とし、基右衛門を祀ったものとして信仰を集め、後に合祀されて「板屋原神社」となり現在に至っています。

参考文献

『臼杵史談』第5巻(臼杵史談会編 歴史図書社、1979年)
『野津町誌』(野津町編 野津町、1965年)

板屋原神社へのアクセス

名称

板屋原神社

場所

大分県臼杵市野津町大字野津市1226番地の1

備考

国道10号沿い「板屋(野津)」バス停の角を東へ400m進むと、坂道の先に神社がある。

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