首切り地蔵(吉田長次兵衛と磐城平藩元⽂一揆)

首切り地蔵 義民の史跡
領主を国替えに追い込んだ一揆の遺跡
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元文3年(1738)、磐城平藩の課税強化に反対し、領内百姓2万人が城下に押し寄せ町会所などを打ちこわす「磐城平藩元文一揆」が起こりました。藩は百姓の要求を受け入れ、藩主の内藤政樹は幕府から日向国(今の宮崎県)延岡藩に転封を命じられました。吉田長次兵衛ら一揆指導者が処刑された鎌田川原には、供養のための「首切り地蔵」が残っています。

義民伝承の内容と背景

江戸時代中期、陸奥国磐城平藩は譜代大名の内藤家の領地でしたが、家老の松賀族之助(泰閭)・松賀伊織(孝興)親子が藩主毒殺による主家乗っ取りを企てた「小姓騒動」の混乱に加え、日光参宮本役や渡良瀬川普請の出費、江戸藩邸の火災、洪水による米の減収などが相次ぎ、深刻な財政難に見舞われます。

磐城平藩はこの事態を乗り切るため、郡代・川崎刑部の指揮のもと、100石につき金1両3歩の小物成歩役金をはじめ、清酒造役などの諸役、茶・木綿などの運上金を設けて課税強化を図りまりした。

享保年間には既に荒田目村喜惣次らが江戸の目安箱に投書して郡代を訴えるなどの動きをしていますが、元文3年(1738)にはついに磐城4郡181か村2万人が城下に押し寄せる全藩一揆に発展しました。これを「磐城平藩元文一揆」といい、柴原村名主・吉田長治兵衛、中神谷村名主・佐藤武左衛門(いずれも今の福島県いわき市)が頭取となり、上着に蓑の着用・5日分の食糧携行・100人1組の行動・藩境への人員配置で他藩の加勢阻止などを申し合わせた極めて統制のとれたものでした。

一揆勢は南北から一斉に平城下に押し寄せ、牢屋を襲撃して永牢になっていた喜惣次を救出するとともに、田町会所を打ちこわして年貢関係の書類を焼却し、本年貢の2厘5分引下げや諸役免除などを藩に要求しました。藩は百姓に鉄砲を奪われ城内の兵糧も尽きるなど為す術がなく、番頭・赤井喜兵衛が交渉に臨んで百姓の要求をほぼ認め、保留の項目も喜兵衛が江戸に出向いて藩公に取り次ぐことを約束して漸く鎮圧しました。

その後、騙されて会所に呼び集められた一揆の頭取たちが捕縛され、柴原村長治兵衛・中神谷村武左衛門は鎌田川原において打首七日曝し、荒田目村喜惣次は曲田にて打首などの極刑が下され、当初の約束も反故にされてしまいました。

一方の藩士についても論功行賞と処分をあわせた大掛かりな人事異動があり、赤井喜兵衛は褒美銀をもらうものの依願免職で嫡子に家督を譲り、歩役金を百姓に課した勝手方用人の三松金左衛門や勘定頭の中根喜左衛門は御役御免になるなどしています。

この「磐城平藩元文一揆」の責任を問われた藩主・内藤正樹は、延享4年(1747)に陸奥磐城平7万石から日向延岡7万石に転封となり、その後一揆の頭取らが処刑された鎌田川原には村人らによって供養のための「首切り地蔵」が建てられました。昭和25年(1950)には対岸の五霊神社境内にも「元文義民之碑」が建てられています。

参考文献

『いわき市史』第2巻 近世(いわき市史編さん委員会 いわき市、1975年)
『譜代藩の研究』(明治大学内藤家文書研究会 八木書店、1972年)
『東洋義人百家伝』第3帙(小室信介 案外堂、1884年)

首切り地蔵へのアクセス

名称

首切り地蔵

場所

福島県いわき市平鎌田町地内

備考

常磐自動車道「いわき中央インターチェンジ」から車で10分、国道399号「平大橋」と並行して夏井川に架かる人道橋の西詰にある。「河原子地蔵堂」の額が掲げられた小堂内に安置され、手前に由来を記した案内板が立っている。なお、この「首切り地蔵」は河川改修により現在地に移転したものという。

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元文義民之碑

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