武左衛門大いちょう(上大野村武左衛門と吉田騒動)

武左衛門大いちょう 義民の史跡
吉田藩の全藩一揆を率いたとされる頭取の埋葬地
義民の史跡
この記事は約5分で読めます。

寛政5年(1793)、伊予国(愛媛県)吉田藩の紙専売制に反対し、宇和郡上大野村(今の愛媛県北宇和郡鬼北町)百姓・武左衛門らを頭取とする大一揆が起こり、約1万人が宇和島城下に迫りました。吉田藩家老・安藤儀太夫は百姓の面前で失政の責を負い切腹し、宗藩である宇和島藩の仲介で百姓側の要求は果たされましたが、武左衛門も獄門となりました。刑死した武左衛門の供養は表立っては禁止されましたが、遺体を埋葬した瑞林寺跡の「武左衛門大いちょう」をはじめ、多くの遺跡が残されています。

義民伝承の内容と背景

宇和島藩の支藩・吉田藩では、紙方役所を設置し、御用商人の法華津屋に専売権を与えて藩財政を立て直そうとしました。

この地域の特産は泉貨紙ですが、高利貸しも営む法花津屋に安く買い叩かれたため、原料の楮栽培や紙漉きに携わる百姓の収入は激減し、領内に不穏な空気が漂いました。

そこで郡奉行所から中見役・鈴木作之進らが出向いて百姓らを宥め、年貢減免や専売制の改善など17か条からなる願書を出させて家老に取り次ぎました。

ところが16歳の若き藩主・伊達村芳に代わり藩政を仕切っていた重役の中でも、百姓に味方する家老・安藤儀太夫(安藤継明)と徹底弾圧を目論む中老・郷六恵左衛門の意見が対立し、評議の結果は「万事従前の通り」という百姓たちを落胆させるものでした。

寛政5年(1793)2月9日、藩内でも「山奥筋」と呼ばれていた8か村の百姓がついに蜂起し、法螺貝や鉄砲で気勢を上げたといい、彼らは呪力がある女性の髪の毛や神社の御札を編み込んだ大縄を携帯し、法花津屋の建物を引き倒すことを目的に吉田城下へと迫りました。

山奥筋の頭取・上大野村武左衛門(武左衛門は通称で本名は嘉兵衛だったといわれる)には、ちょんがり(浄瑠璃語り)に変装して3年間にわたり周辺の村々を回り、24人の同志を得て一揆を組織したという伝承が残されています。

途中で一揆勢を待ち構えて百姓数人を逮捕した吉田藩の代官・横田茂右衛門も数に押されて逃亡、近永村(今の鬼北町)では宗藩である宇和島藩の代官・友岡栄治の説得に応じて願書を出して行き先を変更し、宗藩と支藩の対立を巧みに生かしながら宇和島藩領の八幡河原に集結したころには、浦方を含め全藩83か村、9,600人規模に達したといいます。

2月14日、家老の安藤儀太夫が八幡河原に自ら出向き交渉に臨むものの、「吉田の狸役人ニ用事ハなし」と罵倒されて交渉にならず、かねて覚悟していた通り、一揆勢の面前で失政の責任を負い切腹する大事件が起こります。

これを契機に百姓側から11か条の要求が出され、吉田藩はすべて受理の上で百姓の免責を約束したため、2月16日に一揆勢はようやく八幡河原から退散しました。

そして2月26日、宇和島藩役人の立会いの下で吉田藩から通達が出されますが、その内容は紙方役所の廃止や減税などといった、百姓の要求をほぼ認めるものでした。

体面を失った吉田藩ではその後も密かに一揆の頭取を詮索していたところ、寛政6年(1794)に普請奉行役として山奥筋に出張した岡部某という役人が、井川普請の人夫らを酒に酔わせて頭取の名前を聞き出すことに成功します。

郷六恵左衛門の提案で早くも2月22日には首謀者が捕らえられ、うち武左衛門は山奥境の筒井坂で吟味もなく斬首の上、村境の堀切にて7日間の獄門に処せられたという伝承があります。

ただし、鈴木作之進が密かに書き残した『庫外禁止録』や法華津屋に伝わる『叶高月家旧記録』などの史料によれば、武左衛門は山奥筋の頭取ではあっても一揆全体の頭取とまではいえない立場であり、他の逮捕者とともに吟味を受けた上で目付役に引き渡され、寛政7年(1795)3月23日に打首になったとみられています。

武左衛門は瑞林寺(廃寺)に埋葬されるものの、役人が墓石を粉砕して川に投げ捨てたため、跡地にはその名を冠した「武左衛門大いちょう」と一揆参加者だった勇之進が文化5年(1808)に寄進した「手洗石」のみが残りました。

しかしながら、百姓たちは施餓鬼供養にかこつけて武左衛門のため念仏を唱えたり、盆踊りの口説きに一揆の顛末を織り込むなどして密かに語り継ぎました。

明治以降は旧日吉村初代村長で自由民権運動に身を投じた井谷正命らを中心に武左衛門の顕彰が公に行われるようになり、昭和2年(1927)、明星ヶ丘に「済世救民武左衛門翁及同志者碑」が建立され、現在では町営の「武左衛門一揆記念館」も開館しています。

また、百姓に詫び言をして切腹した安藤儀太夫についても、幕末の嘉永7年(1854)、埋葬地の海蔵寺に「安藤継明廟所」が営まれ、明治6年(1873)には屋敷跡に「継明神社」が創建され、後に「安藤神社」と改称されています。

参考文献

『愛媛県史』近世 上(愛媛県史編さん委員会編 愛媛県、1986年)
『日吉村誌』(日吉村誌編集委員会編 日吉村誌編集委員会、1968年)
『庫外禁止録』(鈴木作之進著、上田吉春・松浦洋一編 日吉村教育委員会、1995年)
『武左衛門一揆考』(白川勝 白水書菴、1999年)

武左衛門大いちょうの地図とアクセス

名称

武左衛門大いちょう

場所

愛媛県北宇和郡鬼北町上大野地内

備考

国道320号沿い「道の駅日吉夢産地」の南1キロメートルほどの瑞林寺跡にあり、その巨大さから広見川対岸を走る国道からも紅葉の様子が眺望できます。入口に「武左衛門一揆の史跡 瑞林寺跡」という看板があります。「武左衛門大いちょう」の手前には「武左衛門之墓」とある墓碑が新たに築かれ、後ろには一揆の際に捕縛され後に釈放された勇之進が文化5年(1808)に寄進した「手洗石」も残されています。

関連する他の史跡の写真

武左衛門屋敷跡
梁井原
済世救民武左衛門翁及同志者碑
安藤継明忠死之地碑
吉田藩陣屋跡
安藤神社
安藤継明廟所

参考文献のうちリンクを掲げたものについては、通常、リンク先Amazonページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で閲覧できる場合があります。>[参考文献が見つからない場合には]