義民小村田之助墓所(小村田之助の義民伝承)

義民小村田之助墓所 義民の史跡
年貢分納を愁訴するも不遜と処刑された庄屋の墓
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寛永20年(1643)、讃岐国山田郡小村(おもれ)(今の香川県高松市)を干魃が襲い、庄屋の小村田之助は、皆済できなければ庄屋が私費で弁済する条件で困窮百姓の年貢分納を高松藩に提案しました。しかし、庄屋の分際で不遜として翌年斬首され、幕末になってようやく墓が建てられました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代初期の寛永19年(1642)、讃岐国山田郡小村では病弱な父・平之丞に代わって19歳の田之助が庄屋職を継ぎますが、同年から翌年の寛永20年(1643)にかけてこの地を2年続きで干魃が襲い、凶作のため年貢を支払えずに困窮する百姓が相次ぎました。

庄屋の田之助は困窮する百姓を救うため、皆済できなければ庄屋が私財で代納する条件を付けて高松藩に年貢の分納を嘆願し、いったんその願いは認められました。ところが、高松藩主・松平頼重の小姓を務めていた大村兵蔵という者が、庄屋の分際で不遜であり、法を蔑ろにする行いだと進言したため、寛永21年(1644)4月24日、小村田之助は山田郡夷村(今の高松市)において斬首の刑に処せられました。

小村田之助の処刑後、高松藩から毎年11月に8分、翌年6月に2分の割合での年貢の分納が認められるようになったため、地元ではこの6月分を俗に「首切り勘定」と称するようになったといいます。

山田郡の庄屋らにより小村田之助の自宅跡にようやく墓が建てられたのは幕末の慶応2年(1866)に入ってからですが、現在も県道沿いにこの墓が残され、地元の義民として毎年の命日に法要が営まれるなど顕彰されています。

また、藩主が処刑の中止を決めて刑場に急使を走らせたものの、間に合わないと見た使者が遠くから中止の合図に白旗を振った場所が今の「白旗神社」で、この白旗が逆に処刑の合図と誤解され、田之助はすぐさま処刑されてしまったとも言い伝えられています。

参考文献

『新修高松市史』Ⅰ(高松市史編集室 高松市役所、1964年)
『義民小村田之助 讃岐百姓一揆史』(福家惣衛 香川県文化同好会、1954年)

義民小村田之助墓所へのアクセス

名称

義民小村田之助墓所

場所

香川県高松市小村町地内

備考

県道147号太田上町志度線の「小村町」交差点(ファミリーマート高松小村町店がある)の西100メートルの地点です。

関連する他の史跡

❶小村田之助処刑場跡
❷白旗神社

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