六之丞八幡宮(堀江六之丞と板倉村強訴)

六之丞八幡宮
年貢減免を要求し処刑された夫婦を祀る

義民の史跡

寛保元年(1741)、丹南藩領の下野国足利郡板倉村(今の栃木県足利市)の百姓らが年貢減免を求めて代官所への強訴を企て、説得に当たった堀江六之丞がかえって頭取とみなされ処刑される事件が起こりました。さらに、夫の無実を江戸表に訴えた妻・よねも同様に処刑されたと伝わっています。文化年間には慰霊のために堀江六之丞・よね夫妻を祀る祠が建てられ、現在は「六之丞八幡宮」となっています。

義民伝承の内容と背景

下野国足利郡板倉村は、河内国(今の大阪府)に藩庁を置く1万石の小藩・河内丹南藩高木氏の飛び地の領地でしたが、天候不順により不作となる中でも農民に重税を課していました。

そこで寛保元年(1741)9月23日、困窮した農民50人あまりが、年貢減免を要求して五十部よべ村(今の足利市)にあった陣屋に押し掛けて強訴しますが、板倉村の堀江六之丞はこれを軽挙妄動と説得し、一旦は農民の代表者のみで代官に陳情することになりました。

ところが代官所からは堀江六之丞がかえって一揆の頭取と見られてしまい、寛保3年(1743)8月22日、拷問の末に地元の松田河岸において斬首されました(なお元号を寛延とするものもある)。

堀江六之丞の妻よねは、捕縛された夫の冤罪を晴らすために江戸屋敷に訴え出るものの、牢舎に入れられている間に夫の六之丞が処刑された上、自らも江戸において処刑されてしまいます。

その後に事の顛末を知った領主は、代官を処罰するとともに、板倉村における年貢の軽減を図ったといわれています。

文化年間(1804~1818)になって、村では慰霊のために堀江六之丞・よね夫妻を羽黒山上の祠に祀るようになり、これが現在の「六之丞八幡宮」となりました。

昭和に入ると、六之丞八幡宮の社前には「済世救民者丈夫之本懐」と題して堀江六之丞の事績を記す石碑も建てられました。

参考文献

『近代足利市史』第1巻(足利市史編さん委員会 足利市、1977年)
『足利の伝説』(台一雄 岩下書店、1974年)

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六之丞八幡宮の場所(地図)と交通アクセス

名称

六之丞八幡宮

場所

栃木県足利市板倉町地内

備考

北関東自動車道「太田桐生インターチェンジ」から車で15分。「板倉町集会所」の東200メートル先に庚申塔数基と「羽黒古墳」の小さな看板がある。ここから未舗装の山道を歩いて山奥に入ると八幡宮の鳥居が見える。

参考文献のうちリンクを掲げたものについては、通常、リンク先Amazonページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)が記載されています。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で閲覧できる場合があります。>[参考文献が見つからない場合には]
このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)