山田源次郎頌徳碑(山田源次郎と西熊野堂村強訴)

山田源次郎頌徳碑 義民の史跡
直訴の末に亡くなった先人を悼む
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文化13年(1816)、駿河国駿東郡西熊堂村(今の静岡県沼津市)の名主・山田源次郎は、重税で困窮する農民たちのため、沼津藩に年貢減免を嘆願するものの聞き入れられず、ついに藩主・水野忠成への強訴に及びました。山田源次郎は首謀者として投獄され、病気で出牢した直後に亡くなりました。近代に入ると源次郎旧宅跡には「山田源次郎頌徳碑」が建てられました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代後期の文化13年(1816)、駿河国駿東郡西熊堂村の名主・山田源次郎は、旱魃にともなう不作や重税のために困窮する農民たちを代表し、沼津藩に年貢の減免を再三にわたり嘆願するものの聞き入れられませんでした。

そこで江藤茂七・川村半左衛門の両名と相談し、簑笠を着けた数百人の農民を率いて藩主・水野忠成への直訴を行ったところ、首謀者として捕らえられて入獄させられてしまいました。

その間に茂七や半左衛門は放免され、税法も改められて農民の負担は軽減されましたが、源次郎はなお許されずに長い獄中生活を送りました。

天保11年(1840)に病気を理由にようやく出獄が許されると、源次郎はそのまま73年の生涯を閉じたといいます。

明治時代に入ると郷土の義人を顕彰しようとする機運が高まり、当時の村長を発起人として、村人たちが資金を集め、明治45年(1912)、山田源次郎の旧宅跡に「山田源次郎頌徳碑」が建てられました。

この頌徳碑の裏面には山田源次郎の事績が記されていますが、それによれば、山田源次郎は城下で強訴しようとする農民たちを諌めて押し止め、獄中では自分1人だけが一揆の首謀者であると称して村人に罪が及ばないようにしたとあります。

また、山田源次郎が葬られた同じ西熊堂の永信寺にも、彼を供養するための墓碑が建てられています。

参考文献

『静岡県駿東郡誌』(静岡県駿東郡編 静岡県駿東郡、1917年)
『沼津市誌』下巻(沼津市誌編纂委員会編 沼津市、1958年)

山田源次郎頌徳碑へのアクセス

名称

山田源次郎頌徳碑

場所

静岡県沼津市西熊堂(にしくまんどう)地内

備考

東名高速道路「沼津インターチェンジ」から車で10分、武井牧場手前のレオパレスに隣接した空地に碑がある。

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❶山田源次郎の墓

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