史跡五義民首切塚(坊沢の五義民と坊沢村村方騒動)

史跡五義民首切塚 義民の史跡
肝煎に抗して処刑された義民たちの供養塚
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享保9年(1724)、出羽国秋田郡坊沢村(今の秋田県北秋田市)において、村入用を巡る肝煎との対立から久保田藩に直訴した成田喜兵衛ら「五義民」が処刑されました。後に坊沢集落の永安寺には「五義民地蔵」が、処刑地の桜木岱には「五義民の碑」が建てられています。

義民伝承の内容と背景

出羽国秋田郡坊沢村は、中世には比内浅利家の家臣・長崎家が支配していましたが、江戸時代に久保田藩佐竹家の領地となって以降も、引き続き坊沢村の肝煎として村政を預かることとなりました。

長崎家6代目の長崎兵助は、肝煎として新田開発に功績がありましたが、その費用を賄うために過重な村入用を割り当てたり水路整備の労役を求めるなどしたため、村人の不満を増大させていきました。

こうした肝煎と村人との対立の中、村人代表21人が久保田城下で訴訟に及びますが、既に肝煎から役人への根回しがされていたため、村人敗訴の結果となってしまいました。

そこで享保9年(1724)に再び直訴を企てたものの、当時は「村成敗」として肝煎の手により裁かれることになっていたため、越訴を行った21人のうち、主謀者の成田喜兵衛・成田喜左衛門・戸島与市右衛門・戸島吉兵衛・戸島権助の5人が斬首、他の16人は追放と決まりました。

翌享保10年(1725)11月6日、村はずれの桜木岱で5人は処刑され、3日にわたってその首が晒された後、同じ場所に埋められたといいます。

なお、「村成敗」は文字通り肝煎に処刑の権限があったとするのは誤りであり、藩の常設の処刑場によらずに百姓の居村で処刑したことをいうのではないかと解釈する説もあります。

坊沢集落の曹洞宗永安寺墓地には「享保十二年 末五月二日 願主戸嶋三郎兵衛」の銘がある石地蔵が現存し、これは事件で追放された後に帰村した戸島三郎兵衛が、処刑された五義民の供養のために造立したものと伝えられます。

また、お盆の時期に永安寺境内で舞われる「坊沢獅子踊り」も、犠牲になった五義民の霊を慰めるために始まったといわれています。

事件から200年が経過した大正13年(1924)、地元青年会が中心となり、5人が打ち首にされた刑場の墓石がある場所に「五義民の碑」が建てられ、昭和53年(1978)には「首切り塚と五義民地蔵」の呼称で北秋田市史跡に指定されています。

参考文献

『五義民―坊沢村百姓一揆の考察』(佐藤貞夫 よねしろ書房、1980年)
『鷹巣町史』第3巻(鷹巣町史編纂委員会 鷹巣町、1989年)
『あきた』通巻83号(秋田県広報協会 秋田県広報協会、1969年)

史跡五義民首切塚へのアクセス

名称

史跡五義民首切塚

場所

秋田県北秋田市坊沢地内

備考

秋田自動車道「伊勢堂岱インターチェンジ」から車で5分、坊沢集落入口の国道7号(羽州街道・秋田街道)沿いにあります。前山方面から鷹巣方面に国道7号を走ると右手に「史跡五義民首切塚」の大きな看板があり、この看板に従って側道に下りたあたりです。

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