義人の碑(蔵川村吉右衛門と蔵川騒動)

義人の碑 義民の史跡
逃散の首謀者として処刑された義民を称える碑
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明和7年(1770)、凶作が続く大洲藩領の伊予国喜多郡蔵川村(今の愛媛県大洲市)では、多数の百姓が宇和島藩領に逃散する「蔵川騒動」が起こります。大洲藩は首謀者を突き止めようとして庄屋や組頭らを入牢させたため、見かねた平百姓の吉右衛門・新之丞の2人が首謀者として名乗り出て処刑され、荒間地峠に梟首されました。村では命日に一升念仏を行うとともに、村外れに石仏を建てて供養しました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代の明和年間、大洲藩領の伊予国喜多郡蔵川村では凶作が続き、百姓から年貢減免を嘆願するものの、藩は何の策も講じませんでした。
そこで明和7年(1770)3月、蔵川村百姓160人が宇和島藩領の宇和郡野村(今の西予市)に逃散し、宇和島藩が説得して帰村させる「蔵川騒動」が起こります。

大洲藩は逃散の主謀者を突き止めようとするものの見つからず、庄屋・組頭はじめ多数の百姓を牢につないだため、見かねた日の平組の平百姓、吉右衛門と新之丞の2人が首謀者として藩庁に名乗り出ました。

大洲藩では捕縛した百姓を釈放する代わりに、同年10月19日、吉右衛門・新之丞の両人を在所で斬首し、その首を大洲街道沿いの荒間地峠に7日間(『大洲市誌』では10日間)晒しました。
新之丞の妻は日暮れを待って30町(3.2キロメートル)もの道程を荒間地峠まで歩き、亡き夫の首を獄門台から取ってきて夜ごと抱いて寝ると、また夜明け前に首を獄門台へ返しに行ったと伝えられます。
また、処刑の際に刀に付いた血糊を洗ったという清水跡も、峠道の「飲まず井戸」として今に残ります。

その後、村では百姓の身代わりとなった2人を弔うため、命日には米を1粒取り出すたびに南無阿弥陀仏の名号を唱え、1升になるまで続ける「一升念仏」を行うとともに、村の東の桜休場と西の観音堂に「吉右衛門 新之丞 村中寄進」などと刻む石仏を建立しました。

昭和32年(1957)には、吉右衛門の法名「本翁悟空士」、新之丞の法名「規外寛空門」や蔵川騒動の梗概を記す新たな「義人の碑」が、旧蔵川小学校近くの路傍に建てられています。
菩提寺である正願寺の過去帳に残るこの法名は、罪科あるゆえにそれぞれ「信士」「禅定門」をあえて略したものとみられており、郷土史家・横田伝松が西園寺富水の説として「蔵川騒動聞書」の中で紹介しています。

参考文献

『日本農民史料聚粋』第4巻(小野武夫編 巌松堂書店、1941年)
『江戸時代のさまざま』(三田村鳶魚 博文館、1929年)
『大洲市碑録』先学者墓碑紀念碑 第一集(大洲市教育委員会編 大洲市役所、1981年)
『愛媛県史』近世下(愛媛県史編さん委員会 愛媛県、1987年)
『ふるさとの民俗』(井之口章次・鎌田久子・亀山慶一・竹田旦 朝日新聞社、1986年)
『大洲市誌』(大洲市誌編纂会編 大洲市誌編纂会、1972年)

義人の碑へのアクセス

名称

義人の碑

場所

愛媛県大洲市蔵川地内

備考

旧蔵川小学校南、愛媛県道44号大洲野村線と長谷農道との交差点にあり、義民の法名と碑文が刻まれている。

関連する他の史跡

桜休場の大師堂
正願寺
飲まず井戸
荒間地峠

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