青田神社(佐藤仁左衛門と宝永騒動)

青田神社
領主に直訴して惨殺された名主を祀る神社

義民の史跡

延宝7年(1679)、生駒領の出羽国矢島郷(今の秋田県由利本荘市)で重臣の山本一家が増税を強いたため、百姓が江戸に直訴して山本一家は失脚しました。代わって台頭した城代家老・市橋彦兵衛も搾取を続けたため、佐藤仁左衛門らが再度直訴して領主の朱印状を得たものの、市橋により処刑又は謀殺されたといわれます。この「延宝騒動」で犠牲となった仁左衛門は、明治時代に農業の神として「青田神社」に祀られました。

義民伝承の内容と背景

豊臣家臣だった生駒親正は、勲功により讃岐国(今の香川県)高松17万1,800石を与えられ、以後、生駒一正・正俊・高俊と4代にわたり高松藩主として君臨しました。しかし、最後の藩主・生駒高俊は重臣らの権力争いを抑えることができずに御家騒動を招き、幕府老中に訴状が提出される事態となりました。

この「生駒騒動」に伴う幕府裁定で讃岐国の領地を没収され、堪忍料として与えられた出羽国矢島1万石に八森陣屋を構えた高俊ですが、その後分知により石高1万石未満となったために旗本として江戸詰めとなり、国許支配は郡奉行・三浦伊右衛門ら陣屋近くの山本小路に集住する「山本一家」に委ねられました。

延宝5年(1677)、矢島領の財政再検索として山本一家主導の検地が行われますが、石高を水増しして無理な年貢増徴を図り、百姓が逃散する事態を招きました。そこで山本一家と対立していた家臣の金子久左衛門らを味方に付けた百姓代表が時の領主・生駒親興に窮状を直訴し、延宝7年(1679)、山本一家に切腹が命じられました。

金子は百姓らを唆して山本一家を襲撃したため、山本一家は領外に逃亡し、代わりに江戸から城代家老・市橋彦兵衛が新たに派遣され、金子とともに領内政治の主導権を握りました。ところが体制が変わっても年貢の厳しい取立ては同様で、単に百姓を政争に巻き込んだだけの結果に終わりました。

延宝8年(1680)6月、下笹子村名主・佐藤仁左衛門らが百姓の連判状を携えて再び江戸に上り、首尾よく領主・生駒親興に面会して年貢を従前どおりとする朱印状をもらいました。失政の誹りを恐れた市橋は、仁左衛門は山本一家と通じて領主交代を画策していると讒言し、変心した領主により仁左衛門討伐が命じられました。

屋敷を襲撃された仁左衛門は辛くも逃れますが、他の同志は捕縛された上に朱印状も奪われ、同年8月、新庄村の裸森刑場において、直訴状を清書した和光院が石打ち刑にあたる石子詰め、笹子の百姓甚太郎ら3人が斬首、外山の孫八ら6人が磔により処刑されました。山中に潜伏していた仁左衛門も、恩賞目当ての裏切りにより閏8月に殺されたといいます。

この「宝永騒動」による百姓逃散で田畑が荒廃したため、後に新庄村の木村与一右衛門の仲介で領主との和解が成立し、年貢は朱印状どおりとなったことから、明治時代には首塚がある場所に農業神として仁左衛門を祀る「青田神社」が、刑場跡には「義烈良民之墓」が建てられ、その功績が顕彰されています。

参考文献

『生駒藩史 讃岐・出羽』(姉崎岩蔵 矢島町公民館、1976年)
『義民仁左衛門ノート』(高橋誠一 三一書房、2003年)
『近世地方経済史料』第1巻(小野武夫 吉川弘文館、1958年)

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青田神社の場所(地図)と交通アクセス

名称

青田神社

場所

秋田県由利本荘市鳥海町下笹子地内

備考

湯沢横手道路「雄勝こまちインターチェンジ」から車で25分、下笹子間木の平の山中にあります。「間木の平会館」の先、県道57号線沿いの墓地近くに文化財愛護シンボルマークが付いた「青田神社 仁左衛門首塚」の青看板が立てられており、ここから山道を4、5分ほど登ると、頂上に首塚の石碑と神社が並んでいます。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)