享和3年(1803)の飢饉に際し、紀伊国名草郡黒江村(今の和歌山県海南市)の漆器職人であった重根屋伊七は、椀に用いる糊の原料である続飯米の名目で食糧の融通を受けようと藩主に直訴し、そのまま牢死しました。これ以降、伊七を供養するため「二膳ば」という風習が生まれたほか、大正時代には伊七の墓が浄国寺に移設の上で整備されています。
義民伝承の内容と背景
同地の漆器職人だった重根屋伊七は、椀づくりに用いる糊の原料である続飯米の名目で80石(又は100石)の食糧の融通を受けようと、紀州藩主に直訴することを企てました。
たちまち38人の賛成者を得た伊七は、同年8月12日、藻屑川(和歌川)沿いの大宅堤の陰に隠れて紀州藩主の行列を待ち受け、町民の困窮を救うため直訴に及びました。
ところが、伊七は無礼であると立腹した藩主により捕縛・投獄され、同年12月29日に獄死したとも、直訴後ただちに家に帰って「白骨の御文章」を唱えつつ自殺したともいわれます。なお、「白骨の御文章」は本願寺八世の蓮如上人による手紙の一節で、「朝ニハ紅顔アリテ夕ニハ白骨トナレル身ナリ」と人間の儚さを説き、今でも浄土真宗の葬儀の際によく読誦されています。
伊七の葬儀は翌年3日(又は4日)に行われましたが、村ではその後、「二膳ば」といって、膳を輸送するとき100個につき2個だけ取っておく予備品をそのまま手元に残して換金し、伊七の法要の費用に充ててねんごろに供養するようになったということです。
明治時代に入って以降、いつしかこの風習も廃れてしまったため、大正11年(1922)に船尾墓地で荒れ果てていた「釈教順塔」と刻む伊七の墓を浄国寺境内に移して整備し、昭和4年(1929)には頌徳会が結成され、郷土の義民として再び顕彰されるようになりました。
参考文献
- 『海南郷土史』(海南市教育委員会編 海南市教育委員会、1954年)pp.195-197
- 『和歌山の研究』第3巻 近世・近代篇(安藤精一編 清文堂出版、1978年)pp.31-32
- 『海南漆器史』(山東町誌編集委員会編 山東町、1984年)pp.94-95
- 『海南市史』第二巻 各説編(海南市史編さん委員会編 海南市、1990年)p.225
重根屋伊七の墓の場所(地図)と交通アクセス
名称
重根屋伊七の墓
場所
和歌山県海南市黒江976番地
備考
関連する他の史跡の写真

生き神信仰 人を神に祀る習俗 (オンデマンド版) 
