江戸時代前期の「寛永の飢饉」に際し、摂津国西成郡木津村(今の大阪府大阪市)の中村勘助は、幕府の米蔵を破って困窮する人々に分け与え、そのために死罪になったとも、彼が開発した「勘助島」に流罪になったともいわれます。勘助は後に歌舞伎や浄瑠璃にも登場して人気を博し、ゆかりの地に銅像や石碑が建てられました。
義民伝承の内容と背景
『大阪府全志』が伝えるところによれば、この年、飢饉の中にあった摂津国西成郡木津村の中村勘助は、下難波村(今の大阪市)の幕府の米蔵を破って困窮する人々に米を施すと、いさぎよく役所に自首して捕縛されたということです。
中村勘助は相模国(今の神奈川県)の出身で、豊臣家に仕えて木津川を浚渫したり、尻無川と木津川にはさまれた姫島(後の勘助島)に築堤して新田開発を行うなど、土木技術の面で大いに活躍した人物であり、同書は「義気に富み公益に尽せし人」と評しています。
その後の勘助ですが、江戸時代後期の作家・浜松歌国が記した『摂陽奇観』巻之十七には、寛文元年(1661)のこととして、「一 六月十五日 木津村勘助五ヶ年以前より入牢ニ及び非分ニ相成り死罪被仰付田畑家財闕所」とあり、明暦3年(1657)の入牢から5年ほどで死罪となり、33町6反1畝26歩、石高にして215石以上という広大な田畑を没収されたことがわかります。
そのいっぽうにおいて、中村勘助が「後藤又兵衛不明の門」とされる黒田藩蔵屋敷の長屋門に上ったという伝承や、幕府の「難波御蔵」が寛永よりはるか後の享保18年(1733)に初めて設置されたという歴史的事実から、実は幕府の米蔵ではなく黒田藩の米蔵に侵入したともいわれます。
また、中村勘助は正保4年(1647)、勘助島に上の宮八坂神社を勧請していることから、本来は死罪のところ罪一等を減じて勘助島に流罪となり、75歳の天寿をまっとうしたとする説もあります。実際に木津勘助の墓がある唯専寺の過去帳は勘助の命日を万治3年(1660)11月26日と記しており、『摂陽奇観』の内容とは矛盾します。
このように中村勘助をめぐる謎は尽きないものの、江戸時代から「木津勘助」の名で歌舞伎や浄瑠璃などの芸能作品に登場し、いわゆる侠客のひとりとして人気を博しました。近代に入ってからも、大正6年(1917)、宮司・山口真臣が八坂神社境内に「中村勘助源義久頌徳碑」を、大正10年(1921)、三代目南福こと新野伊之助が大国主神社境内に「木津勘助之像」をそれぞれ建立し、勘助の事績を顕彰しています。
なお、空襲で劣化した旧碑に代わり、八坂神社境内には昭和54年(1979)に新たな「中村勘助之碑」がつくられたほか、昭和18年(1943)の金属類回収令により供出された銅像のほうも、戦後の昭和29年(1954)になってから木津勘助翁彰徳会により再建されました。
ほかにも、江戸時代からあった勘助島への渡船場を示す道標「勘助島の渡し碑」、勘助が木津村に寄付した共有財産の田畑を小学校建設資金に充てた記念として明治37年(1904)建立された「義田碑」、勘助が私財を投じて鼬川に架けた橋の跡に昭和29年(1954)に建てられた「橋はなくとも勘助橋は残りますぞへいつまでも」と刻む「勘助橋跡の碑」などが、大阪市内のゆかりの地に残されています。
参考文献
- 『大阪府全志』巻之2(井上正雄 大阪府全志発行所、1922年)pp.642-643
- 『浪速叢書』第2(船越政一郎編纂校訂 浪速叢書刊行会、1927年)p.163, p.179
- 『浪速区史』(川端直正編 浪速区創設三十周年記念事業委員会、1957年)
- 『玉露叢』上(江戸史料叢書)(山本武夫校注 人物往来社、1967年)p.274
- 『地名は語る-わが町の生い立ち 大阪市内篇』(岡本良一・脇田修監修、大阪民主新報社編 図書出版文理閣、1982年)pp.134-137
- 『大正区史』(大阪都市協会編 大正区制施行五十周年記念記念事業委員会、1983年)pp.262-263
- 『大阪史蹟辞典』(三善貞司編 清文堂出版、1986年)p.225, pp.602-603, p.613
木津勘助之像の場所(地図)と交通アクセス
名称
木津勘助之像
場所
大阪府大阪市浪速区敷津西1丁目2
備考
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