水はけが悪く降雨のたびに被害を受けていた河内国茨田郡藤田村(今の大阪府守口市)では、慶安2年(1649)、庄屋の小泉弥治右衛門が幕府に無断で大蔵樋を設けましたが、そのために一家5人が磔刑に処せられたと伝えられます。村人たちは弥治右衛門に感謝して道標にその名を刻んで供養しましたが、後に墓碑や記念碑も建てられました。
義民伝承の内容と背景
藤田村の庄屋だった小泉弥治(次)右衛門は、村人たちの困苦を除くため、新たな樋門を設けて排水を容易にしようとしましたが、影響を受ける古川流域の村々の反対に遭い、なかなか幕府の許可を得ることができませんでした。
慶安元年(1648)7月、意を決した弥治右衛門は、かねて徳庵(今の大阪市鶴見区)の船大工・太郎作に依頼しておいた資材を密かに船で運び込み、幕府に無断で一夜のうちに樋門をつくり上げました。
これに先立つ寛永11年(1634)には、近くの南寺方村(今の守口市)庄屋・喜左衛門が無断で悪水樋を移設(「喜左衛門樋」)し、翌年の寛永12年(1635)に処刑されるという、同様の事件が起こっています。
果たして古川流域の村々から訴えられた弥治右衛門は、樋門を取り壊せば罪一等を減じるとの代官の申し出をかたくなに拒否し、翌年の慶安2年(1649)3月22日、妻の浪江、長男の源吉ら家族4人とともに、46歳にして樋門近くの広場で磔刑に処せられ、家財田畑も没収されましたが、樋門そのものは守られました。
『北河内郡史蹟史話』に掲げる慶安3年(1650)の地方文書には、「当村弥次右衛門背二御法度一候ニ付去年丑ノ年三月廿二日に、はり付ニ御かけ子とも迄御成敗被レ成、家財田畠悉々ク殿様江被二召上一、家財ハ入札ニて去年御売払被レ成候」とあります。
人々はこの樋門を「大蔵樋」と名付け、米が蔵に満ちるよう願うとともに、事件からおよそ100年を経た天保年間(1830~1844)には、「すぐ佐田京道」とある道標の下に「俗名 為弥治右ェ門」と名前を刻んでその霊を供養しました。
明治29年(1896)には弥治右衛門の事績を顕彰するため現地に「大蔵閘碑」が、続く昭和7年(1932)には「義民弥治右衛門碑」が建てられました。さらに、付近の工事で弥治右衛門一家5人のものとみられる多数の白骨が発掘されたことから、改めて埋骨の上で「弥治右衛門之墓」が築かれており、今も毎年の命日になると碑前で慰霊祭が営まれます。
参考文献
- 『大阪府全志』巻之四(井上正雄 大阪府全志発行所、1922年)pp.1171-1172
- 『北河内郡史蹟史話』(平尾兵吾編 大阪府北河内郡教育会、1931年)pp.101-105
- 『門真町史』(門真町史編纂委員会編 門真町、1962年)p.329
- 『守口市史』本文編 第3巻(守口市史編纂委員会編 守口市、1966年)pp.830-833
- 『淀川百年史』(淀川百年史編集委員会編 建設省近畿地方建設局、1974年)p.1772
- 『大阪府史』第5巻(近世編1)(大阪府史編集専門委員会編 大阪府、1985年)p.446
義民弥治右衛門碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
義民弥治右衛門碑
場所
大阪府守口市藤田町3丁目87番地
備考
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