紀州藩の奥熊野27か村と新宮領との村替えを巡り、安政2年(1855)から4年(1857)にかけて、反対した村民たちによる「熊野一揆」が勃発しました。江戸から木本代官所に派遣された吉田庄太夫は、独断で村替えの中止を決めると、その責任を負って安永5年(1858)に切腹しました。感謝した人々は庄太夫を神社に祀り、今も顕彰が続いています。
伝承の内容と背景
水野忠央の願いが認められ、安政元年(1854)から2年(1855)にかけて、対象の村々には村替えの布令が出されましたが、これに対して「表領」とよばれた本藩領から「裏領」である新宮領に格下げとなることに強く反発した村人たちは「熊野一揆」を起こしました。
紀州藩では現地に役人を派遣して説得や威迫を試みますが失敗に終わり、浜辺に集まった村人たちは篝火を焚き法螺貝を鳴らして気勢を挙げ、千人以上で木本代官所に押しかけるなど激しく抵抗し、一方で執拗な嘆願活動を繰り返しました。紀州藩ではこのうち主だった者を入牢させ、安政3年(1856)には三丁目庄六が牢死しています。
安政4年(1857)になると、国家老・三浦長門守に対して2千人余りが役人不正などを訴える連判状を提出しようとする騒ぎになりましたが、このころ幕府の内意を受けた江戸詰勘定頭・吉田庄太夫が一揆取鎮めのため木本代官所に派遣されるという新たな動きがありました。
庄太夫は村人たちの話を聞いてその主張に理のあることを悟り、この年の閏5月22日、「御村替御居置之儀願の趣拙者引受可遣候間此墨付を以て一統安心致可申事」との文書を手渡しました。村替え反対の願いを一身をもって引き受けるので、一同安心してほしいとの趣旨です。
喜んだ村人たちは「広大の御慈悲子々孫々に到迄不奉忘」と御礼の書状を差し出すとともに、庄太夫が江戸に引き上げる際には「吉田大明神」の旗を立て、大泊村(今の熊野市)まで輿に乗せて運んだといわれています。
紀州藩も吉田庄太夫が独断で約束した村替えの中止を追認し、勘定吟味役・下和佐伴右衛門を派遣して「御村替先規仕来之通永世御居置之儀被仰出候」と村々に伝達したため、安政2年以来の熊野一揆は終息しました。
本宮組では安政5年(1858)正月、渕竜寺境内の石祠に藩祖・徳川頼宣と吉田庄太夫の木牌を納めて神として祀り込めるなど、感謝した村人たちによって庄太夫を祀る生祠も建てられました。
このように熱烈な民衆の支持を集めた吉田庄太夫でしたが、同年8月29日、一連の責任を負い江戸赤坂の紀州藩邸において切腹して果てました。享年56歳といい、江戸郊外で火葬した上で和歌山城下の本覚寺に納骨され、「義成院至信日厳信士」の法号を刻む墓が営まれました。
没後の文久2年(1862)、木本浦では木本神社境内に「大明神」とのみ刻む石碑を建てて吉田庄太夫の霊を祀り、北山組でも同様に山寺権現社の境内社として祀られましたが、後者は明治時代にいったん上山神社に合祀され、昭和初期に改めて上山神社の境内社として「吉田大明神社」の小祠が建てられて現在に至ります。
その後も昭和16年(1941)に大居士号を贈られたほか、昭和40年(1965)には本覚寺内に「吉田庄太夫正礼顕彰碑」が建てられ、今でも顕彰が続いています。
参考文献
- 『本邦生祠の研究―生祠の史実と其心理分析』(加藤玄智 明治聖徳記念学会、1931年)pp.159-163
- 『紀伊南牟婁郡誌』上巻(三重県南牟婁郡教育会編 名著出版、1971年)pp.441-521
- 『郷土を救った人びとー義人を祀る神社』(神社新報社編 神社新報社、1981年)pp.221-223
- 『熊野市史』上巻(熊野市史編纂委員会編 熊野市、1983年)pp.1002-1047
- 『和歌山県史』近世(和歌山県史編さん委員会編 和歌山県、1990年)pp.767-770
吉田庄太夫正礼顕彰碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
吉田庄太夫正礼顕彰碑
場所
和歌山県和歌山市数寄屋丁8番地
関連情報
073-433-0858(本覚寺)
備考
「吉田庄太夫正礼顕彰碑」は、和歌山市の大新公園向かい、日蓮宗本覚寺境内の和歌山県道153号紀和停車場線に沿った入口付近に建てられています。境内奥の墓地には吉田庄太夫の墓もあります。公共交通機関を用いる場合は、JR紀勢本線・阪和線・和歌山線・和歌山電鐵貴志川線「和歌山駅」から徒歩15分、又は和歌山バス(和歌山市内線)乗車2分、「北の新地」バス停下車、徒歩5分です。マイカーの場合は、阪和自動車道「和歌山インターチェンジ」から10分となっています。
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