義民(ぎみん)についてやさしく解説します

義民松木庄左衛門像
義民松木庄左衛門像
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このページは、義民ぎみん百姓一揆ひゃくしょういっき江戸えど時代の年貢ねんぐ刑罰けいばつなどのことがらについて、みなさんの自由研究の参考にするため、質問しつもんとそれに対する答えの形式で、できるだけやさしく、わかりやすくまとめたものです。

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義民について知りたい

義民とはどのような人たちのことですか

義民義民(ぎみん)」とは、正義(せいぎ)のために命をかけた人たちのことです。特に、江戸(えど)時代の百姓一揆(ひゃくしょういっき)のリーダーや、その他のぎせいになった人たちのことをいいます。

ただし、かならずしも百姓一揆(ひゃくしょういっき)を起こした結果として(な)くなることが「義民(ぎみん)」の条件(じょうけん)というわけではなく、南山一揆(みなみやまいっき)小木曽猪兵衛(おぎそいへえ)三木義民(みきぎみん)岡村源兵衛(おかむらげんべえ)大西与三右衛門(おおにしよざえもん)らのように、ぎせい者を出さずに要求をみとめさせた功績(こうせき)で「義民(ぎみん)」とされている人もいます。もちろん、この場合も命がけの行動であったことには変わりありません。

『広辞苑』第七版(新村出編 岩波書店、2018年)p.733正義・人道のために一身をささげる民。江戸時代、百姓一揆の指導者などを呼んだ。義人。
『日本国語大辞典』第二版第四巻(日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編 小学館、2001年)p.270正義のために自分の命をかけて尽くす人民。また、特に近世、百姓のために一命をなげうって権力と闘った人をいう。
『新版郷土史辞典』(大塚史学会編 朝倉書店、1969年)p.120広義では世のために一身を犠牲にしてつくした民の意味であるが、狭義の歴史用語としては、江戸期~明治期の農民闘争の指導者で、多数農民の代表として処刑された者を指す。義民・義士・義人・義賊という場合の義の意味は、忠に対比されるもので、権力者・支配者に反抗して大衆庶民のためにつくした場合に用いたものであり、用語の起源は明治の自由民権運動期にあると思われる。

義民の中で有名な人はだれですか

歌舞伎『東山桜荘子』の浅倉当吾義民(ぎみん)」ということばが「江戸(えど)時代の百姓一揆(ひゃくしょういっき)のリーダーや、その他のぎせいになった人たち」という意味で使われるようになったのは、江戸(えど)時代の終わりから明治時代にかけて、佐倉宗吾(さくらそうご)の物語が歌舞伎(かぶき)やしばいで大ヒットしたことがきっかけといわれています。

そこで、有名な義民(ぎみん)として、まずは佐倉宗吾(さくらそうご)こと木内惣五郎(きうちそうごろう)が挙げられますが、そのほかにも全国各地に、さまざまな義民(ぎみん)がいたことが知られています。

『義民伝承の研究』 (横山十四男 三一書房、1985年)p.35義民という呼称が一般的になったのは、佐倉惣五郎物語が「佐倉義民伝」という名で出版され、また、惣五郎の歌舞伎脚本および芝居の外題が「佐倉義民伝」と呼ばれるようになった明治二十四年頃からのことと思われる
『百姓一揆とその作法』(保坂智 吉川弘文館、2002年)p.85一八五一年(嘉永四)、江戸中村座で「東山桜荘子」が上演された。……『藤岡屋日記』はそのヒットぶりを、「大評判大当りニて、栄東/\との大見物也」と書いている。……特に寄席では講釈師たちが、「宗吾物語の流行致し候ニ付、義民録と題号致、右講釈を致し」たという。百姓一揆の指導者で、物語が作られたり、顕彰されたりする人を義民とよぶが、そのような意味で義民いう言葉が使われたのは、この「藤岡屋日記」の記述が最初である。

☑️佐倉宗吾さくらそうご木内惣五郎きうちそうごろう

下総国公津村しもうさのくにこうづむら(今の千葉県成田市なりたし)の名主で、承応元年じょうおうがんねん(1652)、佐倉藩さくらはんの農民が重い年貢ねんぐに苦しんでいることを将軍しょうぐん直訴じきそして、つまや子ともとともに処刑しょけいされたといわれます。

宗吾霊堂(木内惣五郎と佐倉宗吾一揆)
承応2年(1652)、下総国印旛郡公津村(今の千葉県佐倉市)の名主であった木内惣五郎は、佐倉藩の悪政を将軍に直訴し、処刑されたと伝わっています。その後、佐倉藩堀田家は改易されたことから惣五郎の祟りと噂...

☑️杉木茂左衛門すぎきもざえもん

上野国月夜野村こうづけのくにつきよのむら(今の群馬県みなかみ町)の名主で、沼田藩主ぬまたはんしゅ真田信利さなだのぶとしが農民を苦しめていたことを将軍しょうぐん直訴じきそしました。その結果、真田さなだ家は取りつぶしとなり、年貢ねんぐも軽くなりましたが、茂左衛門もざえもんははりつけとなったので、「磔茂左衛門はりつけもざえもん」とよばれます。

茂左衛門地蔵尊千日堂(杉木茂左衛門と磔茂左衛門一揆)
天和元年(1681)、上野国利根郡月夜野村(今の群馬県利根郡みなかみ町)名主・杉木茂左衛門は沼田藩の悪政を幕府に直訴し、真田家は改易となるものの、茂左衛門も磔刑に処せられました。この「磔茂左衛門一揆」...

☑️多田加助ただかすけ

信濃国中萱村しなののくになかがやむら(今の長野県安曇野市あづみのし)の元庄屋しょうやで、貞享じょうきょう3年(1686)、年貢ねんぐを軽くするよう松本はんに願い出ようとしたところ、加助に味方した農民1万人が松本城のまわりにあつまりました。加助は城の近くでさわぎを起こしたとしてはりつけになりました。

貞享義民社(多田加助と貞享騒動)
貞享3年(1686)、信濃国安曇郡中萱村(今の長野県安曇野市)元庄屋・多田加助は年貢減免を求めて郡奉行に越訴しますが、これに追随して領内百姓1万人が松本城下に押し寄せる「貞享騒動」が起こります。松本藩...

☑️松木庄左衛門まつのきしょうざえもん

若狭国わかさのくに新道村(今の福井県若狭町わかさちょう)の庄屋しょうやで、小浜藩おばまはん年貢ねんぐを下げるようくり返し願い出ました。その結果、年貢ねんぐは引き下げられましたが、承応元年じょうおうがんねん(1652)にはりつけになりました。

松木神社(松木庄左衛門と小浜藩領承応元年一揆)
小浜藩領では庄屋らが大豆年貢の引下げを繰り返し訴願するものの聞き入れられず、ついに慶安元年(1648)、若狭国遠敷郡新道村(今の福井県三方上中郡若狭町)庄屋・松木庄左衛門をはじめとする惣代が捕縛されま...

義民はどこに、どれくらいの人数がいたのですか

このホームページでは、およそ200人の義民(ぎみん)解説(かいせつ)しています。義民(ぎみん)がいた場所は地図の青い印のあるところですので、ほとんど日本全国にいたことがわかります。ただし、北海道や鹿児島県、沖縄県は少ないので目立った印がありません。


実は、このホームページで解説(かいせつ)しているおよそ200人のほかにも、もっとも多くの義民(ぎみん)がいたことがわかっています。

『近世義民(ぎみん)年表』という本の中では、義民(ぎみん)としての物語や言い伝えをもっている人で、お(ほか)やほこら、お(どう)にまつられていたり、法事やお祭りが行われている人がいないかどうか調べたところ、おそよ2,000人が見つかったといいます。

そうすると、全国各地に2,000人くらい義民(ぎみん)がいたということになりますが、義民(ぎみん)が生まれるきっかけとなる百姓一揆(ひゃくしょういっき)が多い場所と少ない場所とがありますので、「百姓一揆(ひゃくしょういっき)」についての説明も見てください。

『近世義民年表』(保坂智 吉川弘文館、2004年)p.1①特定の人物の活動を中心に、百姓一揆などが物語化されたり、伝承されたりしていること、②なんらかの形で顕彰活動が展開していること、という2点を基準として義民を確定した。彼らは日本各地に存在し、本書に収録した事例数は572件にのぼり、義民の数としては2000名近くに達している。

神様になった義民がいるのですか

祠はい。義民の中には、神様(〇〇霊神(れいじん)、〇〇大明神(だいみょうじん)若宮(わかみや)神社などの名前が多い)として、または、仏様(ほとけさま)地蔵(じぞう)観音(かんのん)など)としてまつられている人が多くいます。
このホームページの中でも、次のように50例以上の義民(ぎみん)をまつる神社やほこらを取り上げています。

神様になった義民のほこら・神社一覧(写真)

昆野八郎右エ門神社
昆野八郎右衛門こんのはちろうえもん
昆野八郎右エ門神社
甚助神社
佐藤甚助さとうじんすけ
甚助神社
青田神社
佐藤仁左衛門さとうにざえもん
青田神社
喜国神社
鈴木源之丞すずきげんのじょう
喜国神社
六之丞八幡宮
堀江六之丞ほりえろくのじょう
六之丞八幡宮
関兵霊神社
遠藤兵内えんどうひょうない
関兵霊神社
山神源治宮
椎名源治しいなげんじ
山神源治宮
口之宮神社
佐倉宗吾さくらそうご
口之宮神社
土神宮
山田藤右衛門やまだとうえもん
土神宮
藤尾社
平藤治たいらとうじ
藤尾社
錦織神社
下田隼人しもだはやと
錦織神社
五十志霊神社
大竹与茂七おおたけよもしち
五十志霊神社
口之神社
涌井藤四郎わくいとうしろう
口之神社

四方神社
栂野彦八とがのひこはち
四方神社
佐助大明神
和田佐助わだのさすけ
佐助大明神
松木神社
松木庄左衛門まつのきしょうざえもん
松木神社
金重大明神
金子重右衛門かねこじゅうえもん
金重大明神
二斗八升神社
原助弥 はらすけや
二斗八升神社
貞享義民社
多田加助ただかすけ
貞享義民社
新七稲荷
平林新七ひらさわしんしち
新七稲荷
勇吉宮
堀内勇吉ほりうちゆうきち
勇吉宮
与兵衛明神
増田与兵衛ますだよへえ
与兵衛明神
萩原神社
野木久右衛門のぎきゅうえもん
萩原神社
芦ノ湖水神社
友野与右衛門とものよえもん
芦ノ湖水神社
青嶋八幡宮神社
川口市郎兵衛かわぐちいちろべえ
青嶋八幡宮神社
藤五郎神社
遠藤藤五郎えんどうとうごろう
藤五郎神社
井之宮神社
中条右近太夫ちゅうじょううこんだゆう
井之宮神社
平方神明社
平方村新左衛門ひらかたむらしんざえもん
平方神明社
保民祠
土川平兵衛つちかわへいべえ
保民祠
光国稲荷
赤松源右衛門あかまつげんえもん
光国稲荷
さいの木神社
西尾六右衛門にしおろくえもん
さいの木神社
夏梅神社
夏梅太郎右衛門なつうめたろうえもん
夏梅神社
置塩神社
滑甚兵衛なめらのじんべえ
置塩神社
富貴神社
吉松仁右衛門よしまつにえもん
富貴神社
小桜神社
山中一揆義民さんちゅういっきぎみん
小桜神社
義民祠
義民四人衆ぎみんよにんしゅう
義民祠
多賀社
岡新左衛門おかしんざえもん
多賀社
五社神社
山口吉右衛門やまぐちきちえもん
五社神社
秀塚神社
井上秀いのうえひで
秀塚神社
七義士神社
大西権兵衛おおにしごんべえ
七義士神社
平称霊神
平井兵左衛門ひらいひょうざえもん
平称霊神
平兵衛神社
村上平兵衛むらかみへいべえ
平兵衛神社
若宮社
今村久兵衛いまむらきゅうべえ
若宮社
若宮神社
中平善之進なかひらぜんのしん
若宮神社
若宮八幡宮
高橋安之丞たかはしやすのじょう
若宮八幡宮
六之神社
義民六人士ぎみんろくにんし
六之神社
八竜天神社
高松八郎兵衛たかまつはちろべえ
八竜天神社
冨田神社
冨田才治とみたさいじ
冨田神社
源三神社
岩本源三いわもとげんぞう
源三神社
板屋原神社
佐土原基右衛門さどはらもとえもん
板屋原神社
若宮神社
和泉新三郎いずみしんざぶろう
若宮神社
川西彰魂社
広瀬屋清七郎ひろせやせいしちろう
川西彰魂社
伊曽島神社
福豊十六人衆ふくとよじゅうろくにんしゅう
伊曽島神社


義民が神様としてまつられた理由は何ですか

神様としてまつられるようになった理由や、まつられた時代はそれぞれの義民(ぎみん)によってちがいますが、たとえば次のように「ふたたび村の人びとを助けてくれるごりやくを期待したため」、「村にもたらされたたたりをしずめるため」といった例が知られています。

ほかにも、命がけの役目である百姓一揆(ひゃくしょういっき)頭取(とうどり)(リーダー)を引き受けてもらうにあたって、一揆(いっき)がもとで(な)くなった場合に神さまとしてまつる約束を、その人が生きているうちからしていた例さえあります。

『百姓一揆とその作法』(保坂智 吉川弘文館、2002年)p.154一八六七年(慶応三)但馬国奈佐組一一ヵ村は、安石代を求める一揆を計画し、契状を作成した。宿預け、手鎖、首鎖、遠流、入牢、死罪の処罰を想定し、それぞれに対する金銭による補償額を決めたが、それにとどまらず、「右等ニ付功分有之、願成就之上は、四郡と石代大明神と悦込、御供米弐石ツ、年々遣シ可申事」(「三宅家文書」)と定めている。

☑️遠藤兵内(えんどうひょうない)

遠藤兵内(えんどうひょうない)は、「伝馬騒動(てんまそうどう)」という百姓一揆(ひゃくしょういっき)(つみ)を問われ、明和3年(1767)に処刑(しょけい)されました。それからおよそ100年がたった文久(ぶんきゅう)3年(1863)、村人のためにぎせいになった兵助は、火災よけ・病気よけ・裁判に(さいばん)勝つなどのごりやくを期待した人たちによって、「関兵霊神(せきひょうれいじん)」という神さまとしてまつられました。

関兵霊神社(遠藤兵内と伝馬騒動)
幕府が中山道沿いの村々に増助郷を課したことを端緒として、明和元年(1764)から翌年にかけて、武蔵・上野・信濃・下野4か国20万人が参加する大一揆「伝馬騒動」が勃発しました。幕府は百姓側の要求を全面的...

『歴史』第55輯(東北史学会編 東北史学会、1980年)pp.61-62兵内くどき……今年文久三つの年に、花の三月追善供養、神に祀りて祠をたてて、……火難病難公事訴訟事、かけし願いはいかなる事も、成就するとぞ……

☑️鈴木源之丞(すずきげんのじょう)

明和元年(めいわがんねん)(1764)、宇都宮城(うつのみやじょう)の城下町に4万5千人が集まり打ちこわしをしたときのリーダーとして、鈴木源之丞(すずきげんのじょう)が打ち首となりました。その後、宇都宮(うつのみや)に大水が押しよせたのは源之丞(げんのじょう)のたたりだといううわさが広まり、たたりをしずめるために「喜国大明神(きこくだいみょうじん)」というほこらにまつられました。

鈴木源之丞供養塔(鈴木源之丞と籾摺騒動)
明和元年(1764)、宇都宮藩の年貢増徴に反対して百姓4万5千人が宇都宮城下で打ちこわしを行う「籾摺騒動」が起こり、頭取として下野国河内郡御田長島村(今の栃木県宇都宮市)庄屋の鈴木源之丞らが打首となり...

義民のたたりにはどんなものがありますか

佐倉宗吾(さくらそうご)をはじめとして、たたりがうわさされた義民(ぎみん)も少なくはありません。
病気や体のおとろえで自然に(な)くなったのであればともかく、百姓一揆(ひゃくしょういっき)責任(せきにん)を負って処刑(しょけい)されたのであれば、いろいろとうらみに思っただろうと人びとが考えるのも無理からぬことです。

祀り上げ
具体的なたたりとしては、火事や大水などの自然災害(さいがい)のほか、大名(だいみょう)家の取りつぶし関係者の死亡(しぼう)などがありますが、イネに虫がついて不作になるのもたたりのせいとされました。

しかし、こうしたたたりがきっかけて神様としてまつられ、(ぎゃく)豊作(ほうさく)などのよいことをもたらす守り神になってくれた例もあります。

『淡路島の民俗』(和歌森太郎編 吉川弘文館、1964年)pp.296-297才蔵は天明2年(1782)の百姓一揆の指導者であり、一揆が弾圧され、同年の2月23日に処刑された。ところが、村人は遺骸を放置したまま供養しなかったので、毎年その遺執が虫となり、稲について不作を招来するという。この虫を「才蔵虫」とよぶ。そこで大宮寺の住職が中心となり、地蔵に祀りこめ、才蔵の命日2月23日(現在は春の彼岸)を縁日として、村中集まり、獅子舞などを出して供養することになったという。やがて才蔵地蔵は信心すれば虫除けに効くと語られ、守札が寺から出され、近隣の村々にも信仰が広がった。明治末年には、大宮寺境内に、「天明志士」の記念碑が建立されている。
「平吉霊神」にしろ「才蔵地蔵」にしろ、生前世直しを求め死後祟り神となり、後に福神化してはやり神となっていったのである。

たたりの言い伝えがある義民一覧

名前 言い伝え
朝来村三兵衛あっそむらさんべえ イネの害虫ヨトウムシが大量発生したのはたたりのせいとされ、「三兵衛虫さんべえむし」という名前がついた。
飯野八兵衛いいのはちべえ 大水で挙母城ころもじょうが建てられなくなったのはたたりのせいとされ、おはか供養塔くようとうがつくられた。
和泉新三郎いずみしんざぶろう ほかが村人にたたるので、ほこらをつくって「若宮わかみや」という神様としてまつった。
岩野平左衛門いわのへいざえもん 火事が起きたのはたたりのせいだとして、「岩平大権現だいごんげん」という神社を建ててまつった。
大竹与茂七おおたけよもしち 新発田城しばたじょうの城下町に起きた大火はたたりによる「与茂七よもしち火事」とされ、おそれた藩主はんしゅが神としてまつった。
大原騒動義民おおはらそうどうぎみん 代官のつまが自さつ、代官も目の病気になり、百姓一揆ひゃくしょういっき死刑しけいになった人たちのたたりのせいだとうわさされた。
木内惣五郎きうちそうごろう 佐倉藩さくらはん堀田ほった家が取りつぶしになったのはたたりのせいとされ、後の藩主はんしゅが「口之宮明神くちのみやみょうじん」という神社にまつったと伝わる。
木料村与七きりょうむらよしち 武士が腹痛ふくつうになったりはんの船が大風にあうなどのたたりがあったので、おはかの場所を移動いどうさせて向きを変えた。
佐土原基右衛門さどはらもとえもん 火事や代官の病気がたたりのせいとされ、火事をふせぐために稲荷社いなりしゃをつくることがはんによりみとめられた。
井上秀いのうえひで 東向きに建てたはずのおはかが西を向くので、うらみで庄屋しょうやのほうを向いてしまうのだとうわさされた。
白井半左衛門しらいはんざえもん 遺言ゆいごんどおりに大火事が起きたとき、白馬にまたがる半左衛門はんざえもん姿すがたを見た人が続出したので、供養塔くようとうを建てた。
鈴木源之丞すずきげんのじょう たたりで城下に「源之丞洪水げんのじょうこうずい」が起きたので、ほこらを建てて「喜国大明神きこくだいみょうじん」としてまつった。
平藤治たいらとうじ くなった後に村でよくないことが起きたので、たたりをおそれて権現ごんげんさまとしてまつった。
高橋安之丞たかはしやすのじょう 打ち首になった首が自宅じたくまで飛んでいっだ、役人がくなったなどのたたりがうわさされ、「若宮わかみや神社」が建てられた。
多田加助ただかすけ 藩主はんしゅの気がふれて水野みずの家が取りつぶしとなったため、たたりをしずめるためほこらにまつった。
中筋才蔵なかすじさいぞう たたりでイネの害虫「才蔵さいぞう虫」が出るので地蔵じぞうをつくってまつったところ、かえってイネの守り神になった。
中平善之進なかひらぜんのしん 処刑しょけいの日に暴風雨ぼうふううがあったのはたたりのせいとおそれられ、藩主はんしゅが「お城八幡はちまん」にまつった。
福田助六ふくだすけろく 打ち首にした代官の身の回りで不幸なことが重なったため、おそれた代官が供養塔くようとうを建てた。
布施村弥五郎ふせむらやごろう 打ち首になった場所で水の入ったビンをほり当てた人がくなり、その場所がたたり地としておそれられた。
遍照坊智専へんじょうぼうちせん 亡くなった次の年からイネの害虫ウンカが大量発生したので、島内のいろいろな場所に供養塔くようとうがつくられた。
山田藤右衛門やまだとうえもん 村で悪い病気が流行したのはたたりのせいだとして、ほこらをつくってまつった。
吉松仁右衛門よしまつにえもん くなるときに「津和野つわのの町を三度きはらう」と言ったとおり大火が起きたので、神社やおどうを建ててまつった。
村上平兵衛むらかみへいべえ 人びとのために一揆いっきを起こしたのに供養くようがなかったので、たたりにより虫がわいた。
河合伊左衛門かわいいざえもん ある人のゆめに出て「だれも供養くようしてくれないので害虫になる」と言ったことから、虫祭をしてほこらにまつった。

義民の言い伝えは本当にあったことですか

義民(ぎみん)がいた時代は、今から150年から400年ほど前になります。もうくわしい理由やいきさつがわからなくなっているため、言い伝えが本当にあったことかどうかも、よく調べてみないとわからないのです。

たとえば、全国各地に義民(ぎみん)についての次のような言い伝えが残っています。

赦免使義民(ぎみん)処刑(しょけい)される日、藩主(はんしゅ)は考えを改めて、(つみ)をゆるす使者を急いで刑場(けいじょう)に送った。
このままでは処刑(しょけい)の時間に間に合わないと思った使者は、遠くから処刑(しょけい)を中止する合図をした。
ところが、それを早く処刑(しょけい)しろという意味だとかんちがいした役人により、不幸にもそのまま処刑(しょけい)されてしまった。

➡️このホームページの中だけでも10事例


元ネタとオマージュ作品の関係しかし、場所や時代がまったくちがうのに、同じような言い伝えがあまりにも多くありすぎるのはおかしなことです。

おそらく、すでに元になる別の義民(ぎみん)物語があって、あまりにもおもしろく感動的だったため、それぞれの義民(ぎみん)の言い伝えを後から変えてまねをした人がいたのではないでしょうか。だからこそ、「どこかで見たことがあるような話の筋書き」がこれほど多いのです。

そうすると、わたしたちが聞いている言い伝えの中には、本当にあったこととそうではないことが(ま)じりあっているおそれがあります。

もしも本当のことを知りたければ、元になる物語を見つけて言い伝えと同じ部分を取りのぞくか、または義民がいたころの(はん)や名主の日記、裁判(さいばん)判決(はんけつ)書、お(はか)供養塔(くようとう)に書かれた文字、その他古い文書を調べて、言い伝えに照らし合わせてみることが必要です。

使者が間に合わなかった(赦免使遅延しゃめんしちえん)という言い伝え一覧

名前 言い伝え
池田三郎左衛門いけださぶろうえもん 裁判さいばんをやり直して死罪しざいに当たらないことがわかったので使者が送られた。使者は「遠声橋とおごえばし」から処刑しょけいを中止するよう大声でさけんだが、間に合わなかった。
杉木茂左衛門すぎきもざえもん 輪王寺宮りんのうじのみやが命ごいをしてつみをゆるすことになり、使者が送られたが間に合わなかった。この使者は責任せきにんを感じて切腹せっぷくしたが、その場所には地蔵じぞうが建てられた。
小村田之助おもれたのすけ 藩主はんしゅ処刑しょけい中止を決めて使者を送ったが、間に合わないと思った使者は遠くで白旗をふった。その場所が今の「白旗神社」で、役人は処刑しょけいの合図とかんちがいして田之助たのすけ処刑しょけいした。
今村久兵衛いまむらきゅうべえ 処刑しょけい直前、使者が早馬でかけつけ、おうぎをふって中止の合図をした。役人は処刑しょけいの合図とかんちがいして、すぐに久兵衛きゅうべえをやりでついた。
和田佐助わだのさすけ 処刑しょけい直前、使者が早馬でかけつけ、橋の3まい目の板をふんで中止をさけんだが、それを役人が処刑しょけいの合図と聞きまちがえたので、その橋を「三まい橋」というようになった。
増田与兵衛ますだよへえ 藩主はんしゅが中止の使者を送ったが、「待て」とさけんだ使者の姿すがたを見た役人が「早くしろ」の意味だとかんちがいし、使者が着く前に処刑しょけいされてしまった。
多田加助ただかすけ 鈴木伊織すずきいおりという武士が藩主はんしゅをいさめて処刑しょけい中止のゆるしを得た。伊織いおりはみずから使者として松本に走るが、馬がたおれて気を失い、処刑しょけいには間に合わなかった。
松原清介まつばらせいすけ 大川伊左衛門いざえもんという武士が幕府ばくふ老中から処刑しょけい中止のゆるしを得たが、使者が着いたのは処刑しょけいが終わった次の日だった。
園田道閑そのだどうかん はんからの使者が茶店で焼きもちを食べていておくれた。遠くからかさを取って「待て」と合図したが、早くしろという合図とかんちがいされ処刑しょけいされてしまった。
吉松仁右衛門よしまつにえもん 大目付・大谷甚左衛門おおたにじんざえもん藩主はんしゅから処刑しょけいを待つようにとのゆるしを得た。しかし、不正をした役人らは柿木かきのきの渡しで川止めをしたため、使者は処刑しょけいに間に合わなかった。
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百姓一揆について知りたい

百姓一揆とは何ですか

江戸(えど)時代、重い年貢(ねんぐ)専売制(せんばいせい)、役人の不正、その他領主(りょうしゅ)政治(せいじ)のあり方に対して、当時の法律(ほうりつ)に合わない方法で、百姓(ひゃくしょう)団結(だんけつ)して反対した運動のことをいいます。これには強訴(ごうそ)越訴(おっそ)逃散(ちょうさん)・打ちこわしのような方法がありました。

「世直し一揆(いっき)」の中でも、領主(りょうしゅ)を直接相手にせず、名主や大商人のやしきをおそったものや、明治時代に新政府(しんせいふ)政治(せいじ)に反対する目的で行われたものも、ここでいう「百姓一揆(ひゃくしょういっき)」にふくまれます。

幕府は百姓(ひゃくしょう)がおおぜいで集まってよからぬ相談をすることを「徒党(ととう)」、「徒党(ととう)」をした上で強いて願い事をすることを「強訴(ごうそ)」、申し合わせて村を立ちのくことを「逃散(ちょうさん)」と定め、高札を立てたり五人組帳に記すなどしてきびしく(きん)じました。

また、強訴(ごうそ)などのリーダーのことを「頭取(とうどり)」とよび、死罪(しざい)に当たる(つみ)であると定めましたが、いっぽうで領主(りょうしゅ)がまちがったことを百姓(ひやくしょう)に申し付けているときは刑罰(けいばつ)を軽くすることや、年貢(ねんぐ)未納(みのう)がないときは重い刑罰(けいばつ)を課さないことも定めています。

百姓一揆(ひゃくしょういっき)形態(けいたい)
よび方 説明
強訴(ごうそ) 百姓が集団で役所におしかけて要求を無理強いすること。
越訴(おっそ) 本来の手続きを飛ばして上の役人や領主(りょうしゅ)に対してうったえ出ること。
逃散(ちょうさん) 百姓が申し合わせて耕作(こうさく)をやめて山の中やほかの領地(りょうち)へにげること。
打ちこわし 名主や大商人などの家や道具をこわして損害(そんがい)を与えること。

『徳川禁令考』第5帙(菊池駿助編 司法省庶務課、1895年)p.296明和七寅年四月
徒党強訴逃散訴人之儀高札

何事によらすよろしからさる事に百姓大勢申合候を徒党ととなへ、徒党して志ゐてねかひ事企るを強訴といひ或ハ申合せ村方立退候をてうさんと申従前之御法度ニ候……
『徳川禁令考』後集第2帙(菊池駿助編 司法省庶務課、1895年)p.149◯廿八 地頭江対し強訴其上致徒党逃散之百姓御仕置之事
寛保元年極
一 頭取 死罪
一 名主 重キ追放
一 組頭 田畑取上 所払
一 惣百姓 村高ニ応シ 過料
但、地頭申付非分有之ハ、其品ニ応し、一等も二等も軽く可相伺、未進於無之ハ、重キ咎ニ不及事
『百姓一揆の研究』(黒正巌 岩波書店、1928年)p.1玆に百姓一揆といふは、徳川時代の中央集権的封建社会に於ける身分的被支配階級たる農民が、支配関係に基きて必然的に生ずる精神的并びに物質的圧迫苦痛を軽減し又は脱却せんが為めに、武士階級に対して消極的又は積極的抵抗を企つる違法的団体運動を総称する。
『百姓一揆の年次的研究』(青木虹二 新生社、1966年)p.34逃散は文字どおり農民が自己の耕作地を放棄して逃亡すること……越訴とは訴訟の手つづきのさい順序に従わず、段階をとびこして行なうもの……強訴は農民が実力行使に及んだものを指し、さらに破壊をともなえば打ちこわしとなる

百姓一揆は時代によるちがいがあるのですか

百姓一揆(ひゃくしょういっき)には「代表越訴型一揆(だいひょうおっそがたいっき)」、「惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)」、「世直(よなお)一揆(いっき)」のようないくつかの段階があるとされています。

江戸(えど)時代のはじめのころは、佐倉宗吾(さくらそうご)のように、村役人がひとりで年貢(ねんぐ)の引き下げなどを将軍(しょうぐん)藩主(はんしゅ)直訴(じきそ)し、直訴(じきそ)(つみ)処刑(しょけい)されてしまうかわりに、村人の願いごとはかなえられるという「代表越訴型一揆(だいひょうおっそがたいっき)」が主流でした。

その後、村全体が参加する大がかりな「惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)」へと発展(はってん)し、幕末(ばくまつ)のころになると、社会そのものを変えようとする「世直(よなお)一揆(いっき)」が起きるようになった、というのがこれまでの通説です。

しかし、その後の研究によって、直訴(じきそ)をしても(ばつ)を受けなかったケースがいろいろと発見され、直訴(じきそ)は実は死罪(しざい)に当たるような重い(つみ)ではなかったことが明らかになりました。

そうすると、義民(ぎみん)の言い伝えはどこまで正しいのか、義民(ぎみん)(し)とひきかえに要求を実現(じつげん)する「代表越訴型一揆(だいひょうおっそがたいっき)」は本当にあったのかという疑問(ぎもん)も生まれてきています。

百姓一揆ひゃくしょういっき発展段階はってんだんかい
時期 種類と説明
前期 代表越訴型一揆だいひょうおっそがたいっき代表越訴型一揆
村役人が村を代表して年貢ねんぐの引き下げなどを領主りょうしゅに対して直訴じきそする
中期 惣百姓一揆そうびゃくしょういっき惣百姓一揆
村役人・本百姓ほんびゃくしょう水呑百姓みずのみびゃくしょうまでをふくめた村人すべて、または二つ以上の村で協力して領主りょうしゅ強訴ごうそする
後期 世直よなお一揆いっき世直し一揆
社会全体を変えようとして本百姓ほんびゃくしょう水呑百姓みずのみびゃくしょうらが村役人と領主りょうしゅのどちらに対しても強訴ごうそや打ちこわしをする

『明治維新の社会構造』(堀江英一 有斐閣、1954年)p.91多くの農民一揆をこうした類型に厳密にはめこむことはむづかしいが、一般的にいって農民一揆は代表越訴型→惣百姓一揆型→世直し一揆型と発展したとみて差支なかろう。

どうして直訴じきそはそれほど重いつみではない
  ⬇️ そうであるならば
🔵 義民ぎみんの言い伝えはどこまで正しいのだろうか
🔵 将軍しょうぐんに名主がひとりで直訴じきそして処刑しょけいされる「代表越訴型一揆だいひょうおっそがたいっき」は本当にあったのだろうか

『百姓一揆とその作法』(保坂智 吉川弘文館、2002年)pp.53-54、p.89将軍へ直訴することを幕府は認めるはずはなく、ひとたびそれを行えば、訴願内容のいかんにかかわらず、佐倉惣五郎がそうであったように不敬きわまりない行為として磔などの極刑に処せられる、というのが一般的な常識であろう。しかし、『徳川実紀』という幕府の正史に記されていたことは、将軍直訴という行為そのものでは逮捕・処罰されなかったという事実である。……
越訴することによっては処刑されないことが明らかな以上、義民物語への全面的な再検討と、それによって導き出されてきた代表越訴時代という認識の再検討が必要なのである。

百姓一揆はいつ、どこで、どれくらいの件数が起きたのですか

百姓一揆総合年表(ひゃくしょういっきそうごうねんぴょう)』という本によれば、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の天下統一(とういつ)から明治時代のはじめまでの間に、百姓一揆(ひゃくしょういっき)全国で3,212件発生したといいます。

以下は百姓一揆(ひゃくしょういっき)がいつ、どこで、どれほどの件数が起きたかを示すグラフや地図ですが、年表と照らし合わせてみると、どのような背景(はいけい)から百姓一揆(ひゃくしょういっき)が起こりやすくなったのかがわかります。

また、この時代の日本は「陸奥国(むつのくに)」、「出羽国(でわのくに)」、「信濃国(しなののくに)」などの「国」にわかれていました。「国」ごとの面積や人口がちがうのでそのまま比べることはできませんが、百姓一揆(ひゃくしょういっき)が多いところとそうでないところがあるのがわかります。

歴史(れきし)年表
年代 できごと
1590 豊臣秀吉(とよとみひでよし)の天下統一(とういつ) 豊臣秀吉関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、小田原(おだわら)北条氏(ほうじょうし)をたおして天下を統一(とういつ)した。この間、全国で検地と刀狩(かたながり)を進め、土一揆(どいっき)一向一揆(いっこういっき)をふせぐとともに、武士(ぶし)と農民の身分を区別した。
1637~1638 島原(しまばら)(らん) 島原の乱きびしい年貢(ねんぐ)の取り立てやキリシタンの弾圧(だんあつ)に対し、天草四郎(あまくさしろう)らおよそ4万人が原城にたてこもり、幕府(ばくふ)軍と戦って敗れた。
1716~1745 享保(きょうほう)改革(かいかく) 徳川吉宗8代将軍(しょうぐん)徳川吉宗(とくがわよしむね)は、上米(あげまい)(せい)を定めたほか、定免法(じょうめんほう)の採用や新田開発を行い、幕府財政(ばくふざいせい)の立て直しをはかった。
1732 享保(きょうほう)の大ききん 飢饉長雨と冷夏、ウンカ(虫)の発生により西日本では米が実らず、うえ死にする人が続出した。1733年には江戸(えど)で打ちこわしが起きた。さつまいもが広まるきっかけとなった。
1782~1788 天明の大ききん 飢饉悪天候と浅間山の大ふん火で東北地方を中心に作物がとれなくなった。全国で90万人以上がうえ死にまたは病死したという。
1787~1793 寛政(かんせい)改革(かいかく) 松平定信老中・松平定信(まつだいらさだのぶ)質素倹約(しっそけんやく)につとめ、棄捐令(きえんれい)を発して旗本・御家人(ごけにん)の借金をなくすとともに、囲米(かこいまい)(せい)で米をたくわえさせた。
1833~1839 天保(てんぽう)の大ききん 飢饉大雨と冷害で東北地方を中心に不作となり、関東でも米のねだんが高くなり、打ちこわしが相次いだ。役人の不正を見かね大塩平八郎(おおしおへいはちろう)反乱(はんらん)を起こした。
1841~1843 天保(てんぽう)改革(かいかく) 水野忠邦老中・水野忠邦(みずのただくに)は、都市部の農民を人返し令で村に返すいっぽう、(かぶ)仲間の解散で物のねだんを引き下げ、上知令(あげちれい)幕府財政(ばくふざいせい)を強化しようとした。
1853 黒船来航(らいこう) マシュー・ペリーアメリカ東インド艦隊(かんたい)ペリー(ひき)いる黒船が浦賀沖(うらがおき)(あらわ)れ、開国を要求した。その後、貿易(ぼうえき)がさかんになるにつれ米や油の値段(ねだん)も高くなり、人びとの生活は苦しくなった。


百姓一揆地図
* 令制国地図ジェネレイターにより作成

『百姓一揆総合年表』(青木虹二 三一書房、1975年)

年次別一揆件数(天正18~慶応3)
百姓一揆 都市騒擾 村方騒動 合計
総計 3,212 488 3,189 6,889

百姓一揆が発生した理由は何ですか

実らぬ稲を掲げる百姓百姓一揆(ひゃくしょういっき)が発生した理由はいろいろですが、ふつうは書面に箇条書(かじょうが)きにしたうったえを百姓(ひゃくしょう)側から領主(りょうしゅ)に差し出すものですので、こうしたうったえを調べてみると、どのような理由なのかがわかります。

たとえば、次のような理由が挙げられます。

不作で米がないので年貢(ねんぐ)を取らないでほしい
年貢(ねんぐ)を集める時期を先延ばしにしてほしい
夫食(ふじき)(食べるためのお米)をわけてほしい
税金(ぜいきん)がとなりの(はん)よりも高すぎるので安くしてほしい
物のねだんが高いので安くなるようにしてほしい
借金の利息が高いので安くしてほしい
専売制(せんばいせい)(はん)が特産物を強制的に農民から買い取る方法)をやめてほしい
不正な役人や名主を追い出してほしい

百姓はどこまでも弱い存在だったのですか

百姓一揆(ひゃくしょういっき)武器(ぶき)をもたず、願いごとを紙に書いて役人にわたしたり、口で伝えたりして要求を果たすのがふつうでしたが、中には武士(ぶし)をしのぐような結果をもたらしたものもありました。

たとえば、代官を本当にたおしてしまった「龍門騒動(りゅうもんそうどう)」、家老を切腹(せっぷく)に追いこんだ「武左衛門一揆(ぶざえもんいっき)」、町人が自治を行った「新潟明和騒動(にいがためいわそうどう)」、百姓(ひゃくしょう)が役人を論破(ろんぱ)した「加茂騒動(かもそうどう)」などを挙げることができます。

☑️龍門騒動りゅうもんそうどう

1人の百姓ひゃくしょうをきりころした後、代官所の屋根にのがれて降参こうさんしようとした代官を、百姓ひゃくしょうたちが屋根から落として竹やりでつきころした。

平尾代官所跡(西谷村又兵衛と竜門騒動)
大和国吉野郡龍門郷(今の奈良県吉野郡吉野町・宇陀市)15か村は旗本・中坊広風の知行所でしたが、出役(代官)の浜島清兵衛が増税を強行しようとしたため、文政元年(1818)、西谷村又兵衛ら6百人が平尾代官...

☑️武左衛門一揆ぶざえもんいっき

武左衛門ぶざえもん指揮しきする1万人の百姓ひゃくしょうが「たぬき役人は帰れ」などと悪口をいいながら宇和島城うわじまじょう近くの河原に押し寄せ、はんの家老を百姓ひゃくしょうの目の前で切腹せっぷくに追いこんだ

武左衛門大いちょう(上大野村武左衛門と吉田騒動)
寛政5年(1793)、伊予国(愛媛県)吉田藩の紙専売制に反対し、宇和郡上大野村(今の愛媛県北宇和郡鬼北町)百姓・武左衛門らを頭取とする大一揆が起こり、約1万人が宇和島城下に迫りました。吉田藩家老・安藤...

☑️新潟明和騒動にいがためいわそうどう

新潟の町から役人を追い出し、米手形の発行や借金の利息制限せいげん、もめごとの仲裁ちゅうさいなど、涌井藤四郎わくいとうしろうら町人がみずから政治せいじを行った。

明和義人顕彰之碑(涌井藤四郎と新潟明和騒動)
明和5年(1768)、越後国新潟町(今の新潟県新潟市)で長岡藩が賦課した御用金に反対する大規模な打ちこわしが発生し、これを契機に町中惣代の湧井藤四郎らを中心とする住民自治が生まれました。この「新潟明和...

☑️加茂騒動かもそうどう

つかまった頭取とうどり(リーダー)の松平辰蔵まつだいらたつぞうが「農民といえば『天下のお百姓ひゃくしょう』といわれるくらいたいせつなものだ。お百姓ひゃくしょうがけがでもしたら大変だ。」などと言って取り調べをする役人を論破ろんぱしまくった。

滝脇村石御堂(松平辰蔵と加茂一揆)
天保7年(1836)、三河国(今の愛知県)加茂郡で凶作や米価高騰を機に「加茂一揆」が勃発し、額田郡を合わせ1万人規模に拡大しました。彼らは下河内村(今の豊田市)の松平辰蔵を頭取として、「世直し」を称し...
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江戸時代の税金について知りたい

江戸時代の税金にはどんな種類がありましたか

米俵を担ぐ人江戸(えど)時代の百姓(ひゃくしょう)負担(ふたん)していた税金(ぜいきん)のうち、主なものは「本年貢(ほんねんぐ)」ともいわれる「本途物成(ほんとものなり)」で、米の生産量が基準(きじゅん)になっていました。このように江戸(えど)時代は米を中心に世の中のしくみが成り立っていたので、「米づかいの経済(けいざい)」ともよばれます。

そのほかにも「小物成(こものなり)」や「高掛物(たかがかりもの)」のような雑税(ざつぜい)がありました。

江戸(えど)時代の税金(ぜいきん)の種類
種類 説明
本途物成(ほんとものなり) 検地(けんち)によって石高(こくだか)が決められた田畑ややしきなどに課せられる税金(ぜいきん)で、「本年貢(ほんねんぐ)」ともいいます。
小物成(こものなり) 山・川・原野などの利用に対して課せられる税金(ぜいきん)で、「小年貢(こねんぐ)」といわれることもありました。
高掛物(たかがかりもの) 村高に応じて課せられる税金(ぜいきん)で、たとえば幕府領(ばくふりょう)では「高掛(たかがかり)三役」といわれる伝馬宿入用(てんましゅくにゅうよう)(馬の継ぎ立てや宿場の費用(ひよう))、六尺給米(ろくしゃくきゅうまい)江戸城(えどじょう)の台所の人件費(じんけんひ))、蔵前入用(くらまえにゅうよう)(米を(おさ)める(くら)費用(ひよう))が代表的でした。
国役(くにやく) 朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)の来訪や将軍の日光社参(にっこうしゃさん)など、臨時(りんじ)費用(ひよう)をまかなうために幕府(ばくふ)が一国単位で課した税金(ぜいきん)のことです。
夫役(ぶやく) 道路や河川の工事などのために領主(りょうしゅ)へ労働力を差し出すことで、お金で代用されることもありました。近くの宿場町のために人や馬を差し出す「助郷役(すけごうやく)」などもふくまれます。

検地とは何ですか

検地年貢(ねんぐ)は土地の生産量をあらわす「石高(こくだか)」をもとに決まります。その「石高(こくだか)」を決めるために、土地の面積や等級を調べることを「検地(けんち)」といいました。

江戸(えど)時代には、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が行った日本全国を対象とする「太閤検地(たいこうけんち)」の石高(こくだか)をそのまま使う地域(ちいき)もあれば、領主(りょうしゅ)検地(けんち)をしなおして新しい石高(こくだか)を決めた地域(ちいき)もありました。

なかには、田んぼの本当の面積よりも大きな面積になるような強引な検地(けんち)をして、年貢(ねんぐ)を多く取り立てようとした領主(りょうしゅ)もおり、これが百姓一揆(ひゃくしょういっき)の理由になったことがあります。

検地ではどうやって面積を調べたのですか

求積法検地(けんち)をするにあたっては、田んぼの4すみにサイミ竹を、その中間にボンテン竹を立てて目印にします。向かい合うボンテンを水縄(みずなわ)で結び、真ん中で直角にまじわっていることを、十字とよばれる木の道具でチェックします。

このように、田んぼを長方形に見立ててたてと横の長さをはかり、「(たて)✕横=面積」の公式で面積を求める「十字法」とよばれる方法がよく用いられていました。なお、この時代には長方形の長い辺をたて、短い辺を横とするのがふつうでした。

もちろん、すべての田んぼが長方形に近いかたちをしているわけではありません。この場合、サイミ竹で囲まれた長方形の外側にある田んぼの一部を「見捨(みすて)」、長方形の内部にある田んぼの外側の土地を「見込(みこみ)」として、 「見捨(みすて)」と「見込(みこみ)」の面積が同じになるようにサイミ竹やボンテン竹の位置をうまく調整して、無理にでも長方形をつくるようにしていました。

昔はメートルやヘクタールのような単位ではなく、長さをあらわすのに(けん)、面積をあらわすのに(ちょう)(たん)(せ)(ぶ)のような単位を使っていました。

例でいえば、この田んぼはたてが24間、横が12間半の長方形とみなすことができるので、その面積は24✕12.5=300歩、すなわち1段ということになります。

尺貫法による長さや面積の単位
単位 説明
(けん) およそ1.82メートル
(ちょう) 3000歩(およそ9917平方メートル)
(たん) 300歩(およそ991平方メートル)
(せ) 30歩(およそ99平方メートル)
(ぶ) 1間✕1間(およそ3.3平方メートル)

『検地―縄と竿の支配』(神崎彰利 教育社、1983年)pp.44-45その丈量は、まず一筆耕地の四隅を決定することからはじまり、ここに細見竹を、次に細見竹の中間、縦と横の中点に梵天竹をたてる。この梵天竹相互に間縄を張り、十文字の交点に十字木を当てて各交点を直角に正したうえ、縦何間・横何間とその長さを確定する。どのような形をした耕地であっても、縦と横の十文字に竿を入れることが基本で、縦竿からはじまるがとくに横竿が大切であって、この竿取にはとくに熟練者を必要とし、また竿の入れ方には口伝があるといわれている(『地方落穂集』)。これが丈量の基本で、不定形の耕地もすべてこの応用である。

石高はどうやって決めたのですか

検地(けんち)のときには、土地の面積をはかるのとあわせて、よく米がとれる田んぼからあまりとれない田んぼまで、順に「上田」、「中田」、「下田」、「下下田」の位(ランク)をつけておきます。

そして、ランクごとに1(たん)(1(たん))の広さの田んぼからとれると予想される米の量を「石盛(こくもり)」として決めておき、石盛(こくもり)に面積をかけたものを「石高(こくだか)」としました。

検地(けんち)が終わると、それぞれの田んぼの耕作者(こうさくしゃ)や面積などを「検地帳(けんちちょう)」という帳面(ちょうめん)に記入し、年貢(ねんぐ)を課するときの参考にしました。

石盛(1段あたり見込まれる生産量)✕面積=石高

石盛 たとえば、次のようにランクごとに決める
上田 中田 下田 下下田
上田 中田 下田 下々田
こく 1石3斗 1石1斗 9斗

年貢の量はどうやって決めたのですか

石高(こくだか)」に税率(ぜいりつ)(「(めん)」という。)をかけたものが「取箇(とりか)」や「物成(ものなり)」とよばれる年貢(ねんぐ)の量で、残りは「作得(さくとく)」として百姓(ひゃくしょう)のものになりました。

五公五民江戸(えど)時代には税率(ぜいりつ)5割の「五公五民」、4割の「四公六民」がふつうでしたが、これは「検地帳(けんちちょう)」の石高(こくだか)をもとにしたものであり、本当は3割から4割ほどの税率(ぜいりつ)で、米以外の商品作物の生産量までふくめるとそれ以下ではなかったかという説もあります。

年貢(ねんぐ)は今とはちがって、個人ではなく、村を基準(きじゅん)に課せられており、これを「村請制(むらうけせい)」といいました。村の責任(せきにん)ですべての村民の年貢(ねんぐ)を取りまとめて領主(りょうしゅ)(おさ)めるため、もしも年貢(ねんぐ)を払えない人がいた場合には、村全体でかわりに負担(ふたん)しなければなりませんでした。

年貢(ねんぐ)の具体的な額を決める方法には、毎年の米のとれ具合を役人が見た上で決める「検見法(けみほう)」や、過去の平均的(へいきんてき)な米のとれ高を基準(きじゅん)にして毎年の年貢率(ねんぐりつ)を同じにする「定免法(じょうめんほう)」がありました。江戸(えど)時代中期からは、「有毛検見法(ありげけみほう)」といって、田畑のランクや石盛(こくもり)に関係なく、本当にとれた量から年貢(ねんぐ)を決める方法も用いられるようになりました。

このような方法で決められた年貢(ねんぐ)は、「免状(めんじょう)」とよばれる書面で村に言いわたされ、村ではその書面をもとにそれぞれの村人に割りつけました。

年貢(ねんぐ)は年に何回かにわけて(おさ)める時期が決まっており、すべて終わると領主(りょうしゅ)から「年貢皆済目録(ねんぐかいさいもくろく)」をもらいました。

年貢の決め方のちがい
方法 説明
検見法(けみほう) 役人が村に来て、毎年の米のとれ具合を調べた上で、その年の年貢(ねんぐ)量を決める
定免法(じょうめんほう) その村の過去数年間の平均的(へいきんてき)なとれ高をもとに、一定期間(たとえば5年間)は同じだけの年貢(ねんぐ)負担(ふたん)する
有毛検見法(ありげけみほう) 田畑のランクや石盛(こくもり)に関係なく、本当にとれた量をもとに年貢(ねんぐ)を決める

『地方凡例録』上巻(大石久敬原著・大石信敬補訂・大石慎三郎校訂 近藤出版社、1969年)p.160一 徳川時代の取箇ハ、享保年中より有毛検見に成り、籾五合摺、五公五民にて半〻取に極たる由
『貧農史観を見直す』(佐藤常雄・大石慎三郎 講談社、1995年)pp.114-118年貢率は村高に対する領主取分(年貢量)の百分率で算出される……このごく簡単な数式によって、幕府の享保元年(一七一六年)から天保十二年(一八四一年)までの年貢率を見れば、幕領四百万石のうち年貢米が百五十万石前後で、年貢率は三十~四十パーセントである。……近江国の膳所藩領の村々……実質的な税率は十数パーセントから二十パーセントという水準になる。……このように江戸時代の年貢率は決して高いものだと断定するわけにはいかないのである。

江戸時代の刑罰について知りたい

江戸時代の刑罰にはどんな種類がありましたか

江戸(えど)時代には、今よりもさまざまな種類の刑罰(けいばつ)がありました。また、幕府(ばくふ)の『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』は有名ですが、それぞれの(はん)ごとに別の法典をつくっていましたので、地方によって刑罰(けいばつ)の名前、種類、量刑(りょうけい)のしかたなどに、かなりの差が出ることもありました。

死刑について

太刀取人の命をうばうのが死刑(しけい)ですが、実は江戸(えど)時代には死刑(しけい)の中にもいくつかの種類がありました。『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』には下手人(げしにん)死罪(しざい)獄門(ごくもん)火刑(かけい)(はりつけ)鋸挽(のこぎりび)きなどの定めがあります。

下手人(げしにん)死罪(しざい)獄門(ごくもん)はいずれも首をはねる刑罰(けいばつ)、ようするに打ち首ですが、死罪(しざい)下手人(げしにん)よりも重く、財産を取り上げられたり町の中を引き回されたりします。獄門(ごくもん)はさらに重く、はねた首を獄門台(ごくもんだい)の上に何日間にもわたってさらされます。

火刑(かけい)は放火の犯人(はんにん)などに用いられる火あぶりの(けい)(はりつけ)は木にしばりつけられた上、やりでさされる刑罰(けいばつ)で、苦しみが長く続くざんこくなものです。鋸挽(のこぎりび)きは土の中にうめて頭だけ出しておいて、通行人に竹でできたのこぎりで首を引かせ、その上ではりつけにするものです。主人をころした場合など、特に重大な犯罪(はんざい)にしか用いられません。

遠島について

遠くの島などに島流しにする刑罰です。死刑(しけい)に次ぐ重大な犯罪(はんざい)に対して用いられました。田畑や家財道具などは取り上げられ、伊豆諸島(いずしょとう)壱岐島(いきのしま)隠岐島(おきのしま)などに送られて、自力で生活しなければなりませんでした。なお、海のない(はん)では、島ではなくて、陸地であっても生活がむずかしい雪深い場所などに送られました。

追放について

自分の住んでいる村などから追い出され、ふたたび入ることができない刑罰(けいばつ)です。(つみ)の重さによって、村だけではなく、江戸(えど)や大坂などの大都市、(はん)内全体など、立ち入りを禁止(きんし)される場所の広さがちがいます。たとえば、「江戸十里四方(えどじゅうりしほう)追放」のように、具体的に指定されていました。

その他の刑罰について

そのほか、軽いものでは手錠(てじょう)をかけられる「手鎖(てじょう(てぐさり))」、今の罰金(ばっきん)に当たる「過料」、役人からしかられる「(しか)り」などがありました。ぬすみなどの犯罪(はんざい)の場合、むちでたたく「(たた)き」や、うでやひたいに線や「犬」、「悪」などの文字をほる「入墨(いれずみ)」も行われました。

連座とは何ですか

連座時代や地方によってちがいますが、江戸(えど)時代の特にはじめのころには、本当に(つみ)をおかした人だけではなく、その家族や親族も同じように(つみ)を問われる連座(れんざ)」が行われていました。

また、個人としての実行犯(じっこうはん)がさばかれるだけではなく、村などの集団全体としての(つみ)を問われる場合もあり、だれかの身代わりで刑罰(けいばつ)を受けることもありました。

☑️天正北郷樋事件てんしょうほくごうひじけん

瓦林かわらばやし村と鳴尾なるお村で農業用水をめぐって争い、豊臣秀吉とよとみひでよしの「喧嘩停止令けんかちょうじれい」をやぶったとして、鳴尾村から25人、瓦林村から26人が選ばれて処刑しょけいされた。このとき父の身代わりで13才の少年も処刑しょけいされた。

北郷開樋殉難者之碑(鳴尾の義民と天正北郷樋事件)
天正19年(1591)、干魃に悩む摂津国武庫郡鳴尾村(今の兵庫県西宮市)は枝川上流の瓦林村(同市)から無断引水し、両村百姓の乱闘事件に発展しました。結果として鳴尾村の取水権は認められたものの、豊臣政権...

☑️久留米藩大一揆くるめはんだいいっき

久留米藩くるめはん新税しんぜいに反対して10万人が筑後川ちくごがわの河原に集まり、庄屋しょうやや商人の家を打ちこわした。責任せきにんをとって5人の大庄屋おおじょうやのうち1人をくじ引き処刑しょけいすることになり、高松八郎兵衛たかまつはちろべえがくじ引きに負けて処刑しょけいされたといわれる。

八竜天神社(高松八郎兵衛と久留米藩大一揆)
宝暦4年(1754)、久留米藩の人別銀賦課に端を発して、数万人規模の百姓が参加する全藩一揆「久留米藩大一揆」が勃発します。藩は人別銀を撤回するものの、責任追及のため300人以上を捕縛、御原郡大庄屋・高...

☑️大保木山騒動おおふきやまそうどう

米がとれない山奥なので年貢ねんぐをお金(銀)で納めたいと強訴ごうそしたとして、庄屋しょうや工藤治兵衛くどうじへえらが処刑しょけいされることになった。このとき治兵衛じへえに連座して家族5人も処刑しょけいされたが、その中に4~5才の男の子がいた。

治兵衛堂(工藤治兵衛と大保木騒動)
江戸時代前期の寛文4年(1664)、米が穫れず難儀をしていた石鎚山麓の村々では、年貢米の銀納を求め、中奥山庄屋・工藤治兵衛らを総代として、西条藩主の一柳直興に直訴に及びました。しかし、願いは聞き届けら...

江戸時代には拷問があったのですか

石抱今では刑事裁判(けいじさいばん)にあたり、指紋(しもん)やDNA(ディーエヌエー)型などの科学的な証拠(しょうこ)が重視されるようになっていますが、江戸(えど)時代には自分で(つみ)をおかしたことを告白(こくはく)する「白状(はくじょう)」を重視していました。
そのため、役人がつかまえた容疑者(ようぎしゃ)を自白させるための拷問(ごうもん)がしばしば行われていました。

とはいっても、正式な拷問(ごうもん)の手続きは『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』の中で決まっており、人ごろしや火付け、盗賊(とうぞく)などの重大犯罪(はんざい)であって、証拠(しょうこ)があるのに自白しない場合などにかぎられており、しかも、あらかじめ幕府(ばくふ)の老中に願い出ることが必要でした。

このような正式な拷問(ごうもん)は手続きがめんどうなので、「(ろう)問」とよばれる正式ではない拷問(ごうもん)として、むちで打ったり、石をかかえさせたりといった方法もありました。

(ろう)問であっても証拠(しょうこ)があるのに自白しない場合などにかぎり、当日は医者をよんで手当をさせるなど、やみくもに拷問(ごうもん)をしたわけではないといわれていますが、それにしては義民(ぎみん)とされる人びとが牢屋(ろうや)(な)くなるケースは少なくありません。

これらの拷問(ごうもん)に加えて、牢屋(ろうや)の中は不潔(ふけつ)でかいせん(ダニのせいで皮ふがかゆくなる)などの病気にかかりやすかったことも、多くの人びとが判決(はんけつ)を待たずに(な)くなった理由といえます。

『徳川政刑史料拷問実記』(佐久間長敬 南北出版協会、1893年)p.5幕府に於ては、笞打、石抱、海老責を責問といひ(牢屋にて執行ふ故に略して牢問とも云)釣責を単に拷問とのみ唱へし

☑️飯山騒動いいやまそうどう

飯山藩領いいやまはんりょうで起きた百姓一揆ひゃくしょういっきの頭取として西山九兵衛にしやまくへえがつかまり、無実をうったえたものの、連日にわたる石きの拷問ごうもんにたえかねて頭取であると白状はくじょうしてしまい、打首獄門ごくもんとなった。

九兵衛地蔵(西原九兵衛と飯山騒動)
天保8年(1837)、信濃国(今の長野県)飯山藩領の百姓が豪農の屋敷を打ちこわすとともに年貢減免を藩庁に要求する「飯山騒動」が起こりました。飯山藩では多くの百姓を捕らえて拷問により白状を引き出し、「無...

『実説信州飯山騒動』(西原三郎編著 飯山騒動刊行会、1972年)
只々拷問、つよく日々ニ御座候而、石の八十〆目もだき居是非/\頭取之由不申候内は、ゆるめ無之……日々拷問故無実之罪ニ落入……

ここまで見てくれたみなさんへ

ここまで義民ぎみんについていろいろと説明してきましたが、説明を見て何か心に思うことはあったでしょうか。

社会の人びと法律ほうりつがおかしい」と思った人は、ぜひ国会議員になって、おかしな法律ほうりつを変える仕事をしてください。
裁判さいばんにえこひいきがある」と思った人は、ぜひ裁判さいばん官になって、公平な裁判さいばんが受けられるようにしてください。
「みんなが食べ物にこまらないようにしたい」と思った人は、ぜひ農業者になって、米や野菜をいっぱい作ってください。
「まずしい人を助けたい」と思った人は、ぜひ社会福祉士しゃかいふくししになって、まずしい人の相談に乗ってください。
「たたりをしずめなければ」と思った人は、ぜひおぼうさんになって、うかばれない義民ぎみんれい供養くようしてください。

義民ぎみんについて考えることは、何百年も前の遠い昔のことを調べるだけにとどまりません。
このような時代に後もどりしないために、みなさんがこれからできることは何かを考えること、将来しょうらいどんな仕事を通じてそれができるようになるかを考えることも、同じようにたいせつなことなのです。

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