義民(ぎみん)についてやさしく解説します

義民松木庄左衛門像
義民松木庄左衛門像
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このページは、義民ぎみん百姓一揆ひゃくしょういっき江戸えど時代の年貢ねんぐ刑罰けいばつなどのことがらについて、みなさんの自由研究の参考にするため、質問しつもんとそれに対する答えの形式で、できるだけやさしく、わかりやすくまとめたものです。

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義民について知りたい

義民とはどのような人たちのことですか

義民義民ぎみん」とは、正義せいぎのために命をかけた人たちのことです。特に、江戸えど時代の百姓一揆ひゃくしょういっきのリーダーや、その他のぎせいになった人たちのことをいいます。

ただし、かならずしも百姓一揆ひゃくしょういっきを起こした結果としてくなることが「義民ぎみん」の条件じょうけんというわけではなく、小木曽猪兵衛おぎそいへえ岡村源兵衛おかむらげんべえ大西与三右衛門おおにしよざえもん三木義民みきぎみん)のように、ぎせい者を出さずに要求をみとめさせた功績こうせきで「義民ぎみん」とされている人もいます。もちろん、この場合も命がけの行動であったことには変わりありません。

『広辞苑』第七版(新村出編 岩波書店、2018年)
正義・人道のために一身をささげる民。江戸時代、百姓一揆の指導者などを呼んだ。義人。
『日本国語大辞典』第二版第四巻(日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編 小学館、2001年)
正義のために自分の命をかけて尽くす人民。また、特に近世、百姓のために一命をなげうって権力と闘った人をいう。
『新版郷土史辞典』(大塚史学会編 朝倉書店、1969年)
広義では世のために一身を犠牲にしてつくした民の意味であるが、狭義の歴史用語としては、江戸期~明治期の農民闘争の指導者で、多数農民の代表として処刑された者を指す。義民・義士・義人・義賊という場合の義の意味は、忠に対比されるもので、権力者・支配者に反抗して大衆庶民のためにつくした場合に用いたものであり、用語の起源は明治の自由民権運動期にあると思われる。

義民の中で有名な人はだれですか

歌舞伎の浅倉当吾義民ぎみん」ということばが「江戸えど時代の百姓一揆ひゃくしょういっきのリーダーや、その他のぎせいになった人たち」という意味で使われるようになったのは、江戸えど時代の終わりから明治時代にかけて、佐倉宗吾さくらそうごの物語が歌舞伎かぶきやしばいで大ヒットしたことがきっかけといわれています。

そこで、有名な義民ぎみんとして、まずは佐倉宗吾さくらそうご木内惣五郎きうちそうごろうが挙げられますが、そのほかにも全国各地に、さまざまな義民ぎみんがいたことが知られています。

『義民伝承の研究』 (横山十四男 三一書房、1985年)
義民という呼称が一般的になったのは、佐倉惣五郎物語が「佐倉義民伝」という名で出版され、また、惣五郎の歌舞伎脚本および芝居の外題が「佐倉義民伝」と呼ばれるようになった明治二十四年頃からのことと思われる
『百姓一揆と義民の研究』(保坂智 吉川弘文館、2006年)
義民と呼んだ最初の事例は、一八五一年(嘉永四)の「東山桜荘子」がヒットしたことを記録する「藤岡屋日記」の記述である

☑️佐倉宗吾さくらそうご木内惣五郎きうちそうごろう

下総国公津村しもうさのくにこうづむら(今の千葉県成田市なりたし)の名主で、承応元年じょうおうがんねん(1652)、佐倉藩さくらはんの農民が重い年貢ねんぐに苦しんでいることを将軍しょうぐん直訴じきそして、つまや子ともとともに処刑しょけいされたといわれます。

宗吾霊堂(木内惣五郎と佐倉宗吾一揆)
承応2年(1652)、下総国印旛郡公津村(今の千葉県佐倉市)の名主であった木内惣五郎は、佐倉藩の悪政を将軍に直訴し、処刑されたと伝わっています。その後、佐倉藩堀田家は改易されたことから惣五郎の祟りと噂...

☑️杉木茂左衛門すぎきもざえもん

上野国月夜野村こうづけのくにつきよのむら(今の群馬県みなかみ町)の名主で、沼田藩主ぬまたはんしゅ真田信利さなだのぶとしが農民を苦しめていたことを将軍しょうぐん直訴じきそしました。その結果、真田さなだ家は取りつぶしとなり、年貢ねんぐも軽くなりましたが、茂左衛門もざえもんははりつけとなったので、「磔茂左衛門はりつけもざえもん」とよばれます。

茂左衛門地蔵尊千日堂(杉木茂左衛門と磔茂左衛門一揆)
天和元年(1681)、上野国利根郡月夜野村(今の群馬県利根郡みなかみ町)名主・杉木茂左衛門は沼田藩の悪政を幕府に直訴し、真田家は改易となるものの、茂左衛門も磔刑に処せられました。この「磔茂左衛門一揆」...

☑️多田加助ただかすけ

信濃国中萱村しなののくになかがやむら(今の長野県安曇野市あづみのし)の元庄屋しょうやで、貞享じょうきょう3年(1686)、年貢ねんぐを軽くするよう松本はんに願い出ようとしたところ、加助に味方した農民1万人が松本城のまわりにあつまりました。加助は城の近くでさわぎを起こしたとしてはりつけになりました。

貞享義民社(多田加助と貞享騒動)
貞享3年(1686)、信濃国安曇郡中萱村(今の長野県安曇野市)元庄屋・多田加助は年貢減免を求めて郡奉行に越訴しますが、これに追随して領内百姓1万人が松本城下に押し寄せる「貞享騒動」が起こります。松本藩...

☑️松木庄左衛門まつのきしょうざえもん

若狭国わかさのくに新道村(今の福井県若狭町わかさちょう)の庄屋しょうやで、小浜藩おばまはん年貢ねんぐを下げるようくり返し願い出ました。その結果、年貢ねんぐは引き下げられましたが、承応元年じょうおうがんねん(1652)にはりつけになりました。

松木神社(松木庄左衛門と小浜藩領承応元年一揆)
小浜藩領では庄屋らが大豆年貢の引下げを繰り返し訴願するものの聞き入れられず、ついに慶安元年(1648)、若狭国遠敷郡新道村(今の福井県三方上中郡若狭町)庄屋・松木庄左衛門をはじめとする惣代が捕縛されま...

義民はどこに、どれくらいの人数がいたのですか

このホームページでは、およそ200人の義民ぎみん解説かいせつしています。義民ぎみんがいた場所は地図の青い印のあるところですので、ほとんど日本全国にいたことがわかります。ただし、北海道や鹿児島県、沖縄県は少ないので目立った印がありません。

実は、このホームページで解説かいせつしているおよそ200人のほかにも、もっとも多くの義民ぎみんがいたことがわかっています。

『近世義民ぎみん年表』という本の中では、義民ぎみんとしての物語や言い伝えをもっている人で、おほかやほこら、おどうにまつられていたり、法事やお祭りが行われている人がいないかどうか調べたところ、おそよ2,000人が見つかったといいます。

そうすると、全国各地に2,000人くらい義民ぎみんがいたということになりますが、義民ぎみんが生まれるきっかけとなる百姓一揆ひゃくしょういっきが多い場所と少ない場所とがありますので、「百姓一揆ひゃくしょういっき」についての説明も見てください。

『近世義民年表』(保坂智 吉川弘文館、2004年)
①特定の人物の活動を中心に、百姓一揆などが物語化されたり、伝承されたりしていること、②なんらかの形で顕彰活動が展開していること、という2点を基準として義民を確定した。彼らは日本各地に存在し、本書に収録した事例数は572件にのぼり、義民の数としては2000名近くに達している。

神様になった義民がいるのですか

祠はい。義民の中には、神様(〇〇霊神れいじん、〇〇大明神だいみょうじん若宮わかみや神社などの名前が多い)として、または、仏様ほとけさま地蔵じぞう観音かんのんなど)としてまつられている人が多くいます。
このホームページの中でも、次のような義民ぎみんをまつる神社やほこらを取り上げています。

神様になった義民のほこら・神社一覧(写真)


義民が神様としてまつられた理由は何ですか

義民ぎみんが神様としてまつられるようになった理由や、まつられた時代はそれぞれちがいますが、たとえば、次のような例が知られています。

☑️遠藤兵内えんどうひょうない

遠藤兵内えんどうひょうないは、「伝馬騒動てんまそうどう」という百姓一揆ひゃくしょういっきつみを問われ、明和3年(1767)に処刑しょけいされました。それからおよそ100年がたった文久ぶんきゅう3年(1863)、村人のためにぎせいになった兵助は、火災よけ・病気よけ・裁判にさいばん勝つなどのごりやくを期待した人たちによって、「関兵霊神せきひょうれいじん」という神さまとしてまつられました。

関兵霊神社(遠藤兵内と伝馬騒動)
幕府が中山道沿いの村々に増助郷を課したことを端緒として、明和元年(1764)から翌年にかけて、武蔵・上野・信濃・下野4か国20万人が参加する大一揆「伝馬騒動」が勃発しました。幕府は百姓側の要求を全面的...

『歴史』第55輯(東北史学会編 東北史学会、1980年)
兵内くどき……今年文久三つの年に、花の三月追善供養、神に祀りて祠をたてて、……火難病難公事訴訟事、かけし願いはいかなる事も、成就するとぞ……

☑️鈴木源之丞すずきげんのじょう

明和元年めいわがんねん(1764)、宇都宮城うつのみやじょうの城下町に4万5千人が集まり打ちこわしをしたときのリーダーとして、鈴木源之丞すずきげんのじょうが打ち首となりました。その後、宇都宮うつのみやに大水が押しよせたのは源之丞げんのじょうのたたりだといううわさが広まり、たたりをしずめるために「喜国大明神きこくだいみょうじん」というほこらにまつられました。

鈴木源之丞供養塔(鈴木源之丞と籾摺騒動)
明和元年(1764)、宇都宮藩の年貢増徴に反対して百姓4万5千人が宇都宮城下で打ちこわしを行う「籾摺騒動」が起こり、頭取として下野国河内郡御田長島村(今の栃木県宇都宮市)庄屋の鈴木源之丞らが打首となり...

ほかにも、命がけの役目である百姓一揆ひゃくしょういっき頭取とうどり(リーダー)を引き受けてもらうにあたって、一揆いっきがもとでくなった場合には「石代大明神こくだいだいみょうじん」という神さまとしてまつる約束を、その人が生きているうちからしていた例さえあります。

『百姓一揆とその作法』(保坂智 吉川弘文館、2002年)
一八六七年(慶応三)但馬国奈佐組一一ヵ村は、安石代を求める一揆を計画し、契状を作成した。宿預け、手鎖、首鎖、遠流、入牢、死罪の処罰を想定し、それぞれに対する金銭による補償額を決めたが、それにとどまらず、「右等ニ付功分有之、願成就之上は、四郡と石代大明神と悦込、御供米弐石ツ、年々遣シ可申事」(「三宅家文書」)と定めている。

義民のたたりにはどんなものがありますか

佐倉宗吾さくらそうごをはじめとして、たたりがうわさされた義民ぎみんも少なくはありません。
病気や体のおとろえで自然にくなったのであればともかく、百姓一揆ひゃくしょういっき責任せきにんを負って処刑しょけいされたのであれば、いろいろとうらみに思っただろうと人びとが考えるのも無理からぬことです。

祀り上げ具体的なたたりとしては、火事や大水などの自然災害さいがいのほか、大名だいみょう家の取りつぶし関係者の死亡しぼうなどがありますが、イネに虫がついて不作になるのもたたりのせいとされました。

しかし、こうしたたたりがきっかけて神様としてまつられ、ぎゃく豊作ほうさくなどのよいことをもたらす守り神になってくれた例もあります。

『淡路島の民俗』(和歌森太郎編 吉川弘文館、1964年)
才蔵は天明2年(1782)の百姓一揆の指導者であり、一揆が弾圧され、同年の2月23日に処刑された。ところが、村人は遺骸を放置したまま供養しなかったので、毎年その遺執が虫となり、稲について不作を招来するという。この虫を「才蔵虫」とよぶ。そこで大宮寺の住職が中心となり、地蔵に祀りこめ、才蔵の命日2月23日(現在は春の彼岸)を縁日として、村中集まり、獅子舞などを出して供養することになったという。やがて才蔵地蔵は信心すれば虫除けに効くと語られ、守札が寺から出され、近隣の村々にも信仰が広がった。明治末年には、大宮寺境内に、「天明志士」の記念碑が建立されている。
「平吉霊神」にしろ「才蔵地蔵」にしろ、生前世直しを求め死後祟り神となり、後に福神化してはやり神となっていったのである。

たたりの言い伝えがある義民一覧

名前 言い伝え
朝来村三兵衛あっそむらさんべえ イネの害虫ヨトウムシが大量発生したのはたたりのせいとされ、「三兵衛虫さんべえむし」という名前がついた。
飯野八兵衛いいのはちべえ 大水で挙母城ころもじょうが建てられなくなったのはたたりのせいとされ、おはか供養塔くようとうがつくられた。
和泉新三郎いずみしんざぶろう ほかが村人にたたるので、ほこらをつくって「若宮わかみや」という神様としてまつった。
岩野平左衛門いわのへいざえもん 火事が起きたのはたたりのせいだとして、「岩平大権現だいごんげん」という神社を建ててまつった。
大竹与茂七おおたけよもしち 新発田城しばたじょうの城下町に起きた大火はたたりによる「与茂七よもしち火事」とされ、おそれた藩主はんしゅが神としてまつった。
大原騒動義民おおはらそうどうぎみん 代官のつまが自さつ、代官も目の病気になり、百姓一揆ひゃくしょういっき死刑しけいになった人たちのたたりのせいだとうわさされた。
木内惣五郎きうちそうごろう 佐倉藩さくらはん堀田ほった家が取りつぶしになったのはたたりのせいとされ、後の藩主はんしゅが「口之宮明神くちのみやみょうじん」という神社にまつったと伝わる。
木料村与七きりょうむらよしち 武士が腹痛ふくつうになったりはんの船が大風にあうなどのたたりがあったので、おはかの場所を移動いどうさせて向きを変えた。
佐土原基右衛門さどはらもとえもん 火事や代官の病気がたたりのせいとされ、火事をふせぐために稲荷社いなりしゃをつくることがはんによりみとめられた。
井上秀いのうえひで 東向きに建てたはずのおはかが西を向くので、うらみで庄屋しょうやのほうを向いてしまうのだとうわさされた。
白井半左衛門しらいはんざえもん 遺言ゆいごんどおりに大火事が起きたとき、白馬にまたがる半左衛門はんざえもん姿すがたを見た人が続出したので、供養塔くようとうを建てた。
鈴木源之丞すずきげんのじょう たたりで城下に「源之丞洪水げんのじょうこうずい」が起きたので、ほこらを建てて「喜国大明神きこくだいみょうじん」としてまつった。
平藤治たいらとうじ くなった後に村でよくないことが起きたので、たたりをおそれて権現ごんげんさまとしてまつった。
高橋安之丞たかはしやすのじょう 打ち首になった首が自宅じたくまで飛んでいっだ、役人がくなったなどのたたりがうわさされ、「若宮わかみや神社」が建てられた。
多田加助ただかすけ 藩主はんしゅの気がふれて水野みずの家が取りつぶしとなったため、たたりをしずめるためほこらにまつった。
中筋才蔵なかすじさいぞう たたりでイネの害虫「才蔵さいぞう虫」が出るので地蔵じぞうをつくってまつったところ、かえってイネの守り神になった。
中平善之進なかひらぜんのしん 処刑しょけいの日に暴風雨ぼうふううがあったのはたたりのせいとおそれられ、藩主はんしゅが「お城八幡はちまん」にまつった。
福田助六ふくだすけろく 打ち首にした代官の身の回りで不幸なことが重なったため、おそれた代官が供養塔くようとうを建てた。
布施村弥五郎ふせむらやごろう 打ち首になった場所で水の入ったビンをほり当てた人がくなり、その場所がたたり地としておそれられた。
遍照坊智専へんじょうぼうちせん 亡くなった次の年からイネの害虫ウンカが大量発生したので、島内のいろいろな場所に供養塔くようとうがつくられた。
山田藤右衛門やまだとうえもん 村で悪い病気が流行したのはたたりのせいだとして、ほこらをつくってまつった。
吉松仁右衛門よしまつにえもん くなるときに「津和野つわのの町を三度きはらう」と言ったとおり大火が起きたので、神社やおどうを建ててまつった。
村上平兵衛むらかみへいべえ 人びとのために一揆いっきを起こしたのに供養くようがなかったので、たたりにより虫がわいた。
河合伊左衛門かわいいざえもん ある人のゆめに出て「だれも供養くようしてくれないので害虫になる」と言ったことから、虫祭をしてほこらにまつった。

義民の言い伝えは本当にあったことですか

義民がいた時代は、今から150年から400年ほど前になります。もうくわしい理由やいきさつがわからなくなっているため、言い伝えが本当にあったことかどうかも、よく調べてみないとわからないのです。

たとえば、全国各地に義民ぎみんについての次のような言い伝えが残っています。

\その刑、待て/
赦免使

義民ぎみん処刑しょけいされる日、藩主はんしゅは考えを改めて、つみをゆるす使者を急いで刑場けいじょうに送った。
このままでは処刑しょけいの時間に間に合わないと思った使者は、遠くから処刑しょけいを中止する合図をした。
ところが、それを早く処刑しょけいしろという意味だとかんちがいした役人により、不幸にもそのまま処刑しょけいされてしまった。
➡️このホームページの中だけでも10事例

元ネタとオマージュ作品の関係しかし、場所や時代がまったくちがうのに、同じような言い伝えがあまりにも多くありすぎるのはおかしなことです。

おそらく、すでに元になる別の義民物語があって、あまりにもおもしろく感動的だったため、それぞれの義民ぎみんの言い伝えを後から変えてまねをした人がいたのではないでしょうか。だからこそ、「どこかで見たことがあるような話の筋書き」がこれほど多いのです。

そうすると、わたしたちが聞いている言い伝えの中には、本当にあったこととそうではないことがじりあっているおそれがあります。

もしも本当のことを知りたければ、元になる物語を見つけて言い伝えと同じ部分を取りのぞくか、または義民がいたころのはんや名主の日記、裁判さいばん判決はんけつ書、おはか供養塔くようとうに書かれた文字、その他古い文書を調べて、言い伝えに照らし合わせてみることが必要です。

使者が間に合わなかった(赦免使遅延しゃめんしちえん)という言い伝え一覧

名前 言い伝え
池田三郎左衛門いけださぶろうえもん 裁判さいばんをやり直して死罪しざいに当たらないことがわかったので使者が送られた。使者は「遠声橋とおごえばし」から処刑しょけいを中止するよう大声でさけんだが、間に合わなかった。
杉木茂左衛門すぎきもざえもん 輪王寺宮りんのうじのみやが命ごいをしてつみをゆるすことになり、使者が送られたが間に合わなかった。この使者は責任せきにんを感じて切腹せっぷくしたが、その場所には地蔵じぞうが建てられた。
小村田之助おもれたのすけ 藩主はんしゅ処刑しょけい中止を決めて使者を送ったが、間に合わないと思った使者は遠くで白旗をふった。その場所が今の「白旗神社」で、役人は処刑しょけいの合図とかんちがいして田之助たのすけ処刑しょけいした。
今村久兵衛いまむらきゅうべえ 処刑しょけい直前、使者が早馬でかけつけ、おうぎをふって中止の合図をした。役人は処刑しょけいの合図とかんちがいして、すぐに久兵衛きゅうべえをやりでついた。
和田佐助わだのさすけ 処刑しょけい直前、使者が早馬でかけつけ、橋の3まい目の板をふんで中止をさけんだが、それを役人が処刑しょけいの合図と聞きまちがえたので、その橋を「三まい橋」というようになった。
増田与兵衛ますだよへえ 藩主はんしゅが中止の使者を送ったが、「待て」とさけんだ使者の姿すがたを見た役人が「早くしろ」の意味だとかんちがいし、使者が着く前に処刑しょけいされてしまった。
多田加助ただかすけ 鈴木伊織すずきいおりという武士が藩主はんしゅをいさめて処刑しょけい中止のゆるしを得た。伊織いおりはみずから使者として松本に走るが、馬がたおれて気を失い、処刑しょけいには間に合わなかった。
松原清介まつばらせいすけ 大川伊左衛門いざえもんという武士が幕府ばくふ老中から処刑しょけい中止のゆるしを得たが、使者が着いたのは処刑しょけいが終わった次の日だった。
園田道閑そのだどうかん はんからの使者が茶店で焼きもちを食べていておくれた。遠くからかさを取って「待て」と合図したが、早くしろという合図とかんちがいされ処刑しょけいされてしまった。
吉松仁右衛門よしまつにえもん 大目付・大谷甚左衛門おおたにじんざえもん藩主はんしゅから処刑しょけいを待つようにとのゆるしを得た。しかし、不正をした役人らは柿木かきのきの渡しで川止めをしたため、使者は処刑しょけいに間に合わなかった。

百姓一揆について知りたい

百姓一揆とは何ですか

江戸えど時代、重い年貢ねんぐ専売制せんばいせい、役人の不正、その他領主りょうしゅ政治せいじのあり方に対して、当時の法律ほうりつに合わない方法で、百姓ひゃくしょう団結だんけつして反対した運動のことをいいます。これには強訴ごうそ越訴おっそ逃散ちょうさん・打ちこわしのような方法がありました。

「世直し一揆いっき」の中でも、領主りょうしゅを直接相手にせず、名主や大商人のやしきをおそったものや、明治時代に新政府しんせいふ政治せいじに反対する目的で行われたものも、ここでいう「百姓一揆ひゃくしょういっき」にふくまれます。

幕府は百姓ひゃくしょうがおおぜいで集まってよからぬ相談をすることを「徒党ととう」、「徒党ととう」をした上で強いて願い事をすることを「強訴ごうそ」、申し合わせて村を立ちのくことを「逃散ちょうさん」と定め、高札を立てたり五人組帳に記すなどしてきびしくきんじました。

また、強訴ごうそなどのリーダーのことを「頭取とうどり」とよび、死罪しざいに当たるつみであると定めましたが、いっぽうで領主りょうしゅがまちがったことを百姓ひやくしょうに申し付けているときは刑罰けいばつを軽くすることや、年貢ねんぐ未納みのうがないときは重い刑罰けいばつを課さないことも定めています。

百姓一揆ひゃくしょういっき形態けいたい
よび方 説明
強訴ごうそ 百姓が集団で役所におしかけて要求を無理強いすること。
越訴おっそ 本来の手続きを飛ばして上の役人や領主りょうしゅに対してうったえ出ること。
逃散ちょうさん 百姓が申し合わせて耕作こうさくをやめて山の中やほかの領地りょうちへにげること。
打ちこわし 名主や大商人などの家や道具をこわして損害そんがいを与えること。

『徳川禁令考』第5帙(菊池駿助編 司法省庶務課、1895年)
明和七寅年四月
徒党強訴逃散訴人之儀高札

何事によらすよろしからさる事に百姓大勢申合候を徒党ととなへ、徒党して志ゐてねかひ事企るを強訴といひ或ハ申合せ村方立退候をてうさんと申従前之御法度ニ候……
『徳川禁令考』後集第2帙(菊池駿助編 司法省庶務課、1895年)
◯廿八 地頭江対し強訴其上致徒党逃散之百姓御仕置之事
寛保元年極
一 頭取 死罪
一 名主 重キ追放
一 組頭 田畑取上 所払
一 惣百姓 村高ニ応シ 過料
但、地頭申付非分有之ハ、其品ニ応し、一等も二等も軽く可相伺、未進於無之ハ、重キ咎ニ不及事
『百姓一揆の研究』(黒正巌 岩波書店、1928年)
玆に百姓一揆といふは、徳川時代の中央集権的封建社会に於ける身分的被支配階級たる農民が、支配関係に基きて必然的に生ずる精神的并びに物質的圧迫苦痛を軽減し又は脱却せんが為めに、武士階級に対して消極的又は積極的抵抗を企つる違法的団体運動を総称する。
『百姓一揆の年次的研究』(青木虹二 新生社、1966年)
逃散は文字どおり農民が自己の耕作地を放棄して逃亡すること……越訴とは訴訟の手つづきのさい順序に従わず、段階をとびこして行なうもの……強訴は農民が実力行使に及んだものを指し、さらに破壊をともなえば打ちこわしとなる

百姓一揆は時代によるちがいがあるのですか


百姓一揆ひゃくしょういっきには「代表越訴型一揆だいひょうおっそがたいっき」、「惣百姓一揆そうびゃくしょういっき」、「世直よなお一揆いっき」のようないくつかの段階があるとされています。

江戸えど時代のはじめのころは、佐倉宗吾さくらそうごのように、村役人がひとりで年貢ねんぐの引き下げなどを将軍しょうぐん藩主はんしゅ直訴じきそし、直訴じきそつみ処刑しょけいされてしまうかわりに、村人の願いごとはかなえられるという「代表越訴型一揆だいひょうおっそがたいっき」が主流でした。

その後、村全体が参加する大がかりな「惣百姓一揆そうびゃくしょういっき」へと発展はってんし、幕末ばくまつのころになると、社会そのものを変えようとする「世直よなお一揆いっき」が起きるようになった、というのがこれまでの通説です。

百姓一揆ひゃくしょういっき発展段階はってんだんかい
時期 種類と説明
前期 代表越訴型一揆だいひょうおっそがたいっき代表越訴型一揆
村役人が村を代表して年貢ねんぐの引き下げなどを領主りょうしゅに対して直訴じきそする
中期 惣百姓一揆そうびゃくしょういっき惣百姓一揆
村役人・本百姓ほんびゃくしょう水呑百姓みずのみびゃくしょうまでをふくめた村人すべて、または二つ以上の村で協力して領主りょうしゅ強訴ごうそする
後期 世直よなお一揆いっき世直し一揆
社会全体を変えようとして本百姓ほんびゃくしょう水呑百姓みずのみびゃくしょうらが村役人と領主りょうしゅのどちらに対しても強訴ごうそや打ちこわしをする

『明治維新の社会構造』(堀江英一 有斐閣、1954年)
多くの農民一揆をこうした類型に厳密にはめこむことはむづかしいが、一般的にいって農民一揆は代表越訴型→惣百姓一揆型→世直し一揆型と発展したとみて差支なかろう。

しかし、その後の研究によって、直訴じきそをしてもばつを受けなかったケースがいろいろと発見され、直訴じきそは実は死罪しざいに当たるような重いつみではなかったことが明らかになりました。

そうすると、義民ぎみんの言い伝えはどこまで正しいのか、義民ぎみんとひきかえに要求を実現じつげんする「代表越訴型一揆だいひょうおっそがたいっき」は本当にあったのかという疑問ぎもんも生まれてきています。

どうして直訴じきそはそれほど重いつみではない
  ⬇️ そうであるならば
🔵 義民ぎみんの言い伝えはどこまで正しいのだろうか
🔵 将軍しょうぐんに名主がひとりで直訴じきそして処刑しょけいされる「代表越訴型一揆だいひょうおっそがたいっき」は本当にあったのだろうか

『百姓一揆とその作法』(保坂智 吉川弘文館、2002年)
将軍へ直訴することを幕府は認めるはずはなく、ひとたびそれを行えば、訴願内容のいかんにかかわらず、佐倉惣五郎がそうであったように不敬きわまりない行為として磔などの極刑に処せられる、というのが一般的な常識であろう。しかし、『徳川実紀』という幕府の正史に記されていたことは、将軍直訴という行為そのものでは逮捕・処罰されなかったという事実である。……
越訴することによっては処刑されないことが明らかな以上、義民物語への全面的な再検討と、それによって導き出されてきた代表越訴時代という認識の再検討が必要なのである。

百姓一揆はいつ、どこで、どれくらいの件数が起きたのですか

百姓一揆総合年表ひゃくしょういっきそうごうねんぴょう』という本によれば、豊臣秀吉とよとみひでよしの天下統一とういつから明治時代のはじめまでの間に、百姓一揆ひゃくしょういっき全国で3,212件発生したといいます。

これは百姓一揆ひゃくしょういっきがいつ、どれほどの件数が起きたかを示すグラフです。年表と照らし合わせてみると、どのような背景はいけいから百姓一揆ひゃくしょういっきが起こりやすくなったのかがわかります。

江戸えど時代の歴史れきし年表
年代 できごと
1716~1745 享保きょうほう改革かいかく 徳川吉宗8代将軍しょうぐん徳川吉宗とくがわよしむねは、上米あげまいせいを定めたほか、定免法じょうめんほうの採用や新田開発を行い、幕府ばくふ財政ざいせいの立て直しをはかった。
1732 享保きょうほうの大ききん 飢饉長雨と冷夏、ウンカ(虫)の発生により西日本では米が実らず、うえ死にする人が続出した。1733年には江戸えどで打ちこわしが起きた。さつまいもが広まるきっかけとなった。
1782~1788 天明の大ききん 飢饉悪天候と浅間山の大ふん火で東北地方を中心に作物がとれなくなった。全国で90万人以上がうえ死にまたは病死したという。
1787~1793 寛政かんせい改革かいかく 松平定信老中・松平定信まつだいらさだのぶ質素倹約しっそけんやくにつとめ、棄捐令きえんれいを発して旗本・御家人ごけにんの借金をなくすとともに、囲米かこいまいせいで米をたくわえさせた。
1833~1839 天保てんぽうの大ききん 飢饉大雨と冷害で東北地方を中心に不作となり、関東でも米のねだんが高くなり、打ちこわしが相次いだ。役人の不正を見かね大塩平八郎おおしおへいはちろう反乱はんらんを起こした。
1841~1843 天保てんぽう改革かいかく 水野忠邦老中・水野忠邦みずのただくには、都市部の農民を人返し令で村に返すいっぽう、かぶ仲間の解散で物のねだんを引き下げ、上知令あげちれい幕府財政ばくふざいせいを強化しようとした。

これは江戸えど時代の百姓一揆ひゃくしょういっきが、どの地方でより多く起きているかをグラフや地図であらわしたものです。

この時代、日本は「陸奥国むつのくに」、「出羽国でわのくに」、「信濃国しなののくに」などの「国」にわかれていました。「国」ごとの面積や人口がちがうのでそのまま比べることはできませんが、百姓一揆ひゃくしょういっきが多いところとそうでないところがあるのがわかります。


百姓一揆地図

『百姓一揆総合年表』(青木虹二 三一書房、1975年)

年次別一揆件数(天正18~慶応3)
百姓一揆 都市騒擾 村方騒動 合計
総計 3,212 488 3,189 6,889

百姓一揆が発生した理由は何ですか

不作百姓一揆ひゃくしょういっきが発生した理由はいろいろですが、ふつうは書面に箇条書かじょうがきにしたうったえを百姓ひゃくしょう側から領主りょうしゅに差し出すものですので、こうしたうったえを調べてみると、どのような理由なのかがわかります。

たとえば、次のような理由が挙げられます。

不作で米がないので年貢を取らないでほしい
年貢ねんぐを集める時期を先延ばしにしてほしい
夫食ふじき(食べるためのお米)をわけてほしい
税金ぜいきんがとなりのはんよりも高すぎるので安くしてほしい
物のねだんが高いので安くなるようにしてほしい
借金の利息が高いので安くしてほしい
専売制せんばいせいはんが特産物を強制的に農民から買い取る方法)をやめてほしい
不正な役人や名主を追い出してほしい

百姓はどこまでも弱い存在だったのですか

百姓一揆ひゃくしょういっき武器ぶきをもたず、願いごとを紙に書いて役人にわたしたり、口で伝えたりして要求を果たすのがふつうでしたが、中には武士ぶしをしのぐような結果をもたらしたものもありました。

☑️龍門騒動りゅうもんそうどう

1人の百姓ひゃくしょうをきりころした後、代官所の屋根にのがれて降参こうさんしようとした代官を、百姓ひゃくしょうたちが屋根から落として竹やりでつきころした。

平尾代官所跡(西谷村又兵衛と竜門騒動)
大和国吉野郡龍門郷(今の奈良県吉野郡吉野町・宇陀市)15か村は旗本・中坊広風の知行所でしたが、出役(代官)の浜島清兵衛が増税を強行しようとしたため、文政元年(1818)、西谷村又兵衛ら6百人が平尾代官...

☑️武左衛門一揆ぶざえもんいっき

武左衛門ぶざえもん指揮しきする1万人の百姓ひゃくしょうが「たぬき役人は帰れ」などと悪口をいいながら宇和島城うわじまじょう近くの河原に押し寄せ、はんの家老を百姓ひゃくしょうの目の前で切腹せっぷくに追いこんだ

武左衛門大いちょう(上大野村武左衛門と吉田騒動)
寛政5年(1793)、伊予国(愛媛県)吉田藩の紙専売制に反対し、宇和郡上大野村(今の愛媛県北宇和郡鬼北町)百姓・武左衛門らを頭取とする大一揆が起こり、約1万人が宇和島城下に迫りました。吉田藩家老・安藤...

☑️新潟明和騒動にいがためいわそうどう

新潟の町から役人を追い出し、米手形の発行や借金の利息制限せいげん、もめごとの仲裁ちゅうさいなど、涌井藤四郎わくいとうしろうら町人がみずから政治せいじを行った。

明和義人顕彰之碑(涌井藤四郎と新潟明和騒動)
明和5年(1768)、越後国新潟町(今の新潟県新潟市)で長岡藩が賦課した御用金に反対する大規模な打ちこわしが発生し、これを契機に町中惣代の湧井藤四郎らを中心とする住民自治が生まれました。この「新潟明和...

☑️加茂騒動かもそうどう

つかまった頭取とうどり(リーダー)の松平辰蔵まつだいらたつぞうが「農民といえば『天下のお百姓ひゃくしょう』といわれるくらいたいせつなものだ。お百姓ひゃくしょうがけがでもしたら大変だ。」などと言って取り調べをする役人を論破ろんぱしまくった。

滝脇村石御堂(松平辰蔵と加茂一揆)
天保7年(1836)、三河国(今の愛知県)加茂郡で凶作や米価高騰を機に「加茂一揆」が勃発し、額田郡を合わせ1万人規模に拡大しました。彼らは下河内村(今の豊田市)の松平辰蔵を頭取として、「世直し」を称し...

江戸時代の税金について知りたい

江戸時代の税金にはどんな種類がありましたか

米俵を担ぐ人江戸えど時代の百姓ひゃくしょう負担ふたんしていた税金ぜいきんのうち、主なものは「本年貢ほんねんぐ」ともいわれる「本途物成ほんとものなり」で、米の生産量が基準きじゅんになっていました。このように江戸えど時代は米を中心に世の中のしくみが成り立っていたので、「米づかいの経済けいざい」ともよばれます。

そのほかにも「小物成こものなり」や「高掛物たかがかりもの」のような雑税ざつぜいがありました。

江戸えど時代の税金ぜいきんの種類
種類 説明
本途物成ほんとものなり 検地けんちによって石高こくだかが決められた田畑ややしきなどに課せられる税金ぜいきんで、「本年貢ほんねんぐ」ともいいます。
小物成こものなり 山・川・原野などの利用に対して課せられる税金ぜいきんで、「小年貢こねんぐ」といわれることもありました。
高掛物たかがかりもの 村高に応じて課せられる税金ぜいきんで、たとえば幕府領ばくふりょうでは「高掛たかがかり三役」といわれる伝馬宿入用てんましゅくにゅうよう(馬の継ぎ立てや宿場の費用ひよう)、六尺給米ろくしゃくきゅうまい江戸城えどじょうの台所の人件費じんけんひ)、蔵前入用くらまえにゅうよう(米をおさめるくら費用ひよう)が代表的でした。
国役くにやく 朝鮮通信使ちょうせんつうしんしの来訪や将軍の日光社参にっこうしゃさんなど、臨時りんじ費用ひようをまかなうために幕府ばくふが一国単位で課した税金ぜいきんのことです。
夫役ぶやく 道路や河川の工事などのために領主りょうしゅへ労働力を差し出すことで、お金で代用されることもありました。近くの宿場町のために人や馬を差し出す「助郷役すけごうやく」などもふくまれます。

検地とは何ですか

検地年貢ねんぐは土地の生産量をあらわす「石高こくだか」をもとに決まります。その「石高こくだか」を決めるために、土地の面積や等級を調べることを「検地けんち」といいました。

江戸えど時代には、豊臣秀吉とよとみひでよしが行った日本全国を対象とする「太閤検地たいこうけんち」の石高こくだかをそのまま使う地域ちいきもあれば、領主りょうしゅ検地けんちをしなおして新しい石高こくだかを決めた地域ちいきもありました。

なかには、田んぼの本当の面積よりも大きな面積になるような強引な検地けんちをして、年貢ねんぐを多く取り立てようとした領主りょうしゅもおり、これが百姓一揆ひゃくしょういっきの理由になったことがあります。

検地けんちのときには、土地の面積をはかるのとあわせて、よく米がとれる田んぼからあまりとれない田んぼまで、順に「上田」、「中田」、「下田」、「下下田」の等級(ランク)をつけておきます。

そして、等級ごとに1たん(1たん)の広さの田んぼからとれると予想される米の量を「石盛こくもり」として決めておき、石盛こくもりに面積をかけたものを「石高こくだか」としました。

検地けんちが終わると、それぞれの田んぼの耕作者こうさくしゃや面積などを「検地帳けんちちょう」という帳面ちょうめんに記入し、年貢ねんぐを課するときの参考にしました。

石盛(1段あたり見込まれる生産量)✕面積=石高

石盛 たとえば、次のようにランクごとに決める
 上田 1こく
 中田 1石3斗
 下田 1石1斗
 下下田  9斗

年貢の量はどうやって決めたのですか

石高こくだか」に税率ぜいりつ(「めん」という。)をかけたものが「取箇とりか」や「物成ものなり」とよばれる年貢ねんぐの量で、残りは「作得さくとく」として百姓ひゃくしょうのものになりました。

江戸えど時代には税率ぜいりつ5割の「五公五民」、4割の「四公六民」がふつうでしたが、これは「検地帳けんちちょう」の石高こくだかをもとにしたものであり、本当は3割から4割ほどの税率ぜいりつで、米以外の商品作物の生産量までふくめるとそれ以下ではなかったかという説もあります。

年貢ねんぐは今とはちがって、個人ではなく、村を基準きじゅんに課せられており、これを「村請制むらうけせい」といいました。村の責任せきにんですべての村民の年貢ねんぐを取りまとめて領主りょうしゅおさめるため、もしも年貢ねんぐを払えない人がいた場合には、村全体でかわりに負担ふたんしなければなりませんでした。

年貢ねんぐの具体的な額を決める方法には、毎年の米のとれ具合を役人が見た上で決める「検見取法けみどりほう」や、過去の平均的へいきんてきな米のとれ高を基準きじゅんにして毎年の年貢率ねんぐりつを同じにする「定免法じょうめんほう」がありました。

このような方法で決められた年貢ねんぐは、「免状めんじょう」とよばれる書面で村に言いわたされ、村ではその書面をもとにそれぞれの村人に割りつけました。

年貢ねんぐは年に何回かにわけておさめる時期が決まっており、すべて終わると領主りょうしゅから「年貢皆済目録ねんぐかいさいもくろく」をもらいました。

年貢の決め方のちがい
方法 説明
検見取法けみどりほう 役人が村に来て、毎年の米のとれ具合を調べた上で、その年の年貢ねんぐ量を決める
定免法じょうめんほう その村の過去数年間の平均的へいきんてきなとれ高をもとに、一定期間(たとえば5年間)は同じだけの年貢ねんぐ負担ふたんする

『貧農史観を見直す』(佐藤常雄・大石慎三郎 講談社、1995年)
年貢率は村高に対する領主取分(年貢量)の百分率で算出される……このごく簡単な数式によって、幕府の享保元年(一七一六年)から天保十二年(一八四一年)までの年貢率を見れば、幕領四百万石のうち年貢米が百五十万石前後で、年貢率は三十~四十パーセントである。……近江国の膳所藩領の村々……実質的な税率は十数パーセントから二十パーセントという水準になる。……このように江戸時代の年貢率は決して高いものだと断定するわけにはいかないのである。

江戸時代の刑罰について知りたい

江戸時代の刑罰にはどんな種類がありましたか

江戸えど時代には、今よりもさまざまな種類の刑罰けいばつがありました。また、幕府ばくふの『公事方御定書くじかたおさだめがき』は有名ですが、それぞれのはんごとに別の法典をつくっていましたので、地方によって刑罰けいばつの名前、種類、量刑りょうけいのしかたなどに、かなりの差が出ることもありました。

死刑について

太刀取人の命をうばうのが死刑しけいですが、実は江戸えど時代には死刑しけいの中にもいくつかの種類がありました。『公事方御定書くじかたおさだめがき』には下手人げしにん死罪しざい獄門ごくもん火刑かけいはりつけ鋸挽のこぎりびきなどの定めがあります。

下手人げしにん死罪しざい獄門ごくもんはいずれも首をはねる刑罰けいばつ、ようするに打ち首ですが、死罪しざい下手人げしにんよりも重く、財産を取り上げられたり町の中を引き回されたりします。獄門ごくもんはさらに重く、はねた首を獄門台ごくもんだいの上に何日間にもわたってさらされます。

火刑かけいは放火の犯人はんにんなどに用いられる火あぶりのけいはりつけは木にしばりつけられた上、やりでさされる刑罰けいばつで、苦しみが長く続くざんこくなものです。鋸挽のこぎりびきは土の中にうめて頭だけ出しておいて、通行人に竹でできたのこぎりで首を引かせ、その上ではりつけにするものです。主人をころした場合など、特に重大な犯罪はんざいにしか用いられません。

遠島について

遠くの島などに島流しにする刑罰です。死刑しけいに次ぐ重大な犯罪はんざいに対して用いられました。田畑や家財道具などは取り上げられ、伊豆諸島いずしょとう壱岐島いきのしま隠岐島おきのしまなどに送られて、自力で生活しなければなりませんでした。なお、海のないはんでは、島ではなくて、陸地であっても生活がむずかしい雪深い場所などに送られました。

追放について

自分の住んでいる村などから追い出され、ふたたび入ることができない刑罰けいばつです。つみの重さによって、村だけではなく、江戸えどや大坂などの大都市、はん内全体など、立ち入りを禁止きんしされる場所の広さがちがいます。たとえば、「江戸十里四方えどじゅうりしほう追放」のように、具体的に指定されていました。

その他の刑罰について

そのほか、軽いものでは手錠てじょうをかけられる「手鎖てじょう(てぐさり)」、今の罰金ばっきんに当たる「過料」、役人からしかられる「しかり」などがありました。ぬすみなどの犯罪はんざいの場合、むちでたたく「たたき」や、うでやひたいに線や「犬」、「悪」などの文字をほる「入墨いれずみ」も行われました。

連座とは何ですか

連座時代や地方によってちがいますが、江戸えど時代の特にはじめのころには、本当につみをおかした人だけではなく、その家族や親族も同じようにつみを問われる連座れんざ」が行われていました。

また、個人としての実行犯じっこうはんがさばかれるだけではなく、村などの集団全体としてのつみを問われる場合もあり、だれかの身代わりで刑罰けいばつを受けることもありました。

☑️天正北郷樋事件てんしょうほくごうひじけん

瓦林かわらばやし村と鳴尾なるお村で農業用水をめぐって争い、豊臣秀吉とよとみひでよしの「喧嘩停止令けんかちょうじれい」をやぶったとして、鳴尾村から25人、瓦林村から26人が選ばれて処刑しょけいされた。このとき父の身代わりで13才の少年も処刑しょけいされた。

北郷開樋殉難者之碑(鳴尾の義民と天正北郷樋事件)
天正19年(1591)、干魃に悩む摂津国武庫郡鳴尾村(今の兵庫県西宮市)は枝川上流の瓦林村(同市)から無断引水し、両村百姓の乱闘事件に発展しました。結果として鳴尾村の取水権は認められたものの、豊臣政権...

☑️久留米藩大一揆くるめはんだいいっき

久留米藩くるめはん新税しんぜいに反対して10万人が筑後川ちくごがわの河原に集まり、庄屋しょうやや商人の家を打ちこわした。責任せきにんをとって5人の大庄屋おおじょうやのうち1人をくじ引き処刑しょけいすることになり、高松八郎兵衛たかまつはちろべえがくじ引きに負けて処刑しょけいされたといわれる。

八竜天神社(高松八郎兵衛と久留米藩大一揆)
宝暦4年(1754)、久留米藩の人別銀賦課に端を発して、数万人規模の百姓が参加する全藩一揆「久留米藩大一揆」が勃発します。藩は人別銀を撤回するものの、責任追及のため300人以上を捕縛、御原郡大庄屋・高...

☑️大保木山騒動おおふきやまそうどう

米がとれない山奥なので年貢ねんぐをお金(銀)で納めたいと強訴ごうそしたとして、庄屋しょうや工藤治兵衛くどうじへえらが処刑しょけいされることになった。このとき治兵衛じへえに連座して家族5人も処刑しょけいされたが、その中に4~5才の男の子がいた。

治兵衛堂(工藤治兵衛と大保木騒動)
江戸時代前期の寛文4年(1664)、米が穫れず難儀をしていた石鎚山麓の村々では、年貢米の銀納を求め、中奥山庄屋・工藤治兵衛らを総代として、西条藩主の一柳直興に直訴に及びました。しかし、願いは聞き届けら...

江戸時代には拷問があったのですか

石抱今では刑事裁判けいじさいばんにあたり、指紋しもんやDNA(ディーエヌエー)型などの科学的な証拠しょうこが重視されるようになっていますが、江戸えど時代には自分でつみをおかしたことを告白こくはくする「白状はくじょう」を重視していました。
そのため、役人がつかまえた容疑者ようぎしゃを自白させるための拷問ごうもんがしばしば行われていました。

とはいっても、正式な拷問ごうもんの手続きは『公事方御定書くじかたおさだめがき』の中で決まっており、人ごろしや火付け、盗賊とうぞくなどの重大犯罪はんざいであって、証拠しょうこがあるのに自白しない場合などにかぎられており、しかも、あらかじめ幕府ばくふの老中に願い出ることが必要でした。

このような正式な拷問ごうもんは手続きがめんどうなので、「ろう問」とよばれる正式ではない拷問ごうもんとして、むちで打ったり、石をかかえさせたりといった方法もありました。

ろう問であっても証拠しょうこがあるのに自白しない場合などにかぎり、当日は医者をよんで手当もさせており、やみくもに拷問ごうもんをしたわけではないといわれていますが、それにしては義民ぎみんとされる人びとが牢屋ろうやくなるケースは少なくありません。

これらの拷問ごうもんに加えて、牢屋ろうやの中は不潔ふけつでかいせん(ダニのせいで皮ふがかゆくなる)などの病気にかかりやすかったことも、多くの人びとが判決はんけつを待たずにくなった理由といえます。

『徳川政刑史料拷問実記』(佐久間長敬 南北出版協会、1893年)
幕府に於ては、笞打、石抱、海老責を責問といひ(牢屋にて執行ふ故に略して牢問とも云)釣責を単に拷問とのみ唱へし

☑️飯山騒動いいやまそうどう

飯山藩領いいやまはんりょうで起きた百姓一揆ひゃくしょういっきの頭取として西山九兵衛にしやまくへえがつかまり、無実をうったえたものの、連日にわたる石きの拷問ごうもんにたえかねて頭取であると白状はくじょうしてしまい、打首獄門ごくもんとなった。

九兵衛地蔵(西原九兵衛と飯山騒動)
天保8年(1837)、信濃国(今の長野県)飯山藩領の百姓が豪農の屋敷を打ちこわすとともに年貢減免を藩庁に要求する「飯山騒動」が起こりました。飯山藩では多くの百姓を捕らえて拷問により白状を引き出し、「無...

『実説信州飯山騒動』(西原三郎編著 飯山騒動刊行会、1972年)
只々拷問、つよく日々ニ御座候而、石の八十〆目もだき居是非/\頭取之由不申候内は、ゆるめ無之……日々拷問故無実之罪ニ落入……

ここまで見てくれたみなさんへ

ここまで義民ぎみんについていろいろと説明してきましたが、説明を見て何か心に思うことはあったでしょうか。

社会の人びと法律ほうりつがおかしい」と思った人は、ぜひ国会議員になって、おかしな法律ほうりつを変える仕事をしてください。
裁判さいばんにえこひいきがある」と思った人は、ぜひ裁判さいばん官になって、公平な裁判さいばんが受けられるようにしてください。
「みんなが食べ物にこまらないようにしたい」と思った人は、ぜひ農業者になって、米や野菜をいっぱい作ってください。
「まずしい人を助けたい」と思った人は、ぜひ社会福祉士しゃかいふくししになって、まずしい人の相談に乗ってください。
「たたりをしずめなければ」と思った人は、ぜひおぼうさんになって、うかばれない義民ぎみんれい供養くようしてください。

義民ぎみんについて考えることは、何百年も前の遠い昔のことを調べるだけにとどまりません。
このような時代に後もどりしないために、みなさんがこれからできることは何かを考えること、将来しょうらいどんな仕事を通じてそれができるようになるかを考えることも、同じようにたいせつなことなのです。

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