延享3年(1746)、重税に悩む但馬国朝来郡与布土庄越田村(今の兵庫県朝来市)庄屋の木村勝右衛門は、惣代として江戸の勘定奉行・神尾春央に出訴し、生野代官所の不手際もあって勝訴することができました。地元の神社には勝右衛門が寄進した灯籠が残るほか、墓地の近くには勝右衛門の遺徳を顕彰する石碑も建てられています。
義民伝承の内容と背景
但馬国朝来郡与布土庄(今の朝来市)では、風害による凶作に加えて巡見のための陣屋入用が重なったため、困窮して潰れ百姓となる者が相次ぎ、手持ちの山林や家財道具を売り払ったり、子供を年季奉公に出して代物を受け取るなどして、ようやく年貢の皆済に漕ぎ着けるありさまでした。
翌年の延享2年(1745)には、これまで分割で納付していた年貢につき、生野代官所が10月限りの皆済を命じ、未納者は手錠をかけて村預けとしたため、ますます農耕に支障が生じるようになりました。
延享3年(1746)2月17日、生野代官所の役人が与布土庄を訪れ、8か村の庄屋を集めて滞納分の年貢を納付するよう厳命したのをきっかけに、庄屋らは帰途にあった森村(今の朝来市)の八幡神社で寄合をし、4月に訪れる予定の巡検使に訴願することを決め、越田村庄屋の木村勝右衛門を惣代に選びました。
これに先立ち、3月には京都西町奉行所に与布土庄惣代の木村勝右衛門をはじめ、大月庄・和賀庄(ともに今の朝来市)の惣代がそれぞれ出訴していますが、管轄外を理由に訴えを却下されています。
4月11日、幕府巡検使の山田幸右衛門・佐久間吉久・野呂吉十郎を国境で出迎えた木村勝右衛門らは、その日の夜に巡検使に訴状を差し出し、年貢が過重であることや、神尾春央巡見の際の費用を村々に割り当てられて難渋していることなどを申し立てました。
その後も勝右衛門らは巡検使一行を追いかけるものの、最終的に訴えは却下された上、この間の折衝のようすが手代を通じて生野代官・堀江清次郎に伝わり、4月29日には代官所から越田村に鉄砲を携えた捕手が派遣される事態となりました。
檀那寺の慈照寺に匿われていた勝右衛門は、5月1日、夜陰に乗じて在所を脱出し、途中で京都西町奉行所に立ち寄りますが、やはり訴状を受理されなかったため、御茶壺道中の一員に紛れ込んで江戸に向かい、6月2日に老中・酒井忠恭の屋敷に直訴しました。酒井忠恭から所管外であることを諭され、同3日に改めて勘定奉行・神尾春央に出訴した勝右衛門は、「不埒」と激怒されながらも、ようやく奉行所で吟味する約束を取り付けました。
吟味の中で江戸に召喚され、奉行から平素の「不埒」を大声で叱責された他の庄屋らは後難を恐れ、勝右衛門が独断で江戸出訴を決めた旨を証言したため、一時は勝右衛門が不利な情勢となりましたが、勝右衛門は決して言い分を変えることはありませんでした。
9月に入り、生野代官所元締・狩野領右衛門と対決した勝右衛門は、米の収穫がない田地にも麦作を見込んで年貢を課したという領右衛門の主張に対し、これまで麦年貢が課せられた例はないので帳面を見せてほしいと反論しました。奉行が帳面を調べたところ、帳面には麦作見込みの記載はなく、領右衛門も弁明ができなかったことから、この訴訟は一転して勝右衛門の勝訴となりました。
『和田上道日記』によれば、勝右衛門は「願ノ節十分ニカナヒ大小御免ヲ蒙リ帰国シ名ヲ揚ゲル者也」と、勝訴して意気揚々と帰村するいっぽう、元締の狩野領右衛門は切腹、手代の平尾茂平太は命を惜しんで雪隠から逃亡したものの捕縛されたということです。
木村勝右衛門は訴訟に勝利したことを感謝し、當勝神社に灯籠を寄進していますが、安永4年(1775)12月18日には亡くなり、「恭戒定敬居士」の戒名を刻む墓碑が建てられました。また、同じ年には仏門に入った次女・祖心尼が越田村に「如意庵」を開いており、現在は移転新築され慈照寺末の「如意院」となっています。昭和39年(1964)には、木村勝右衛門の遺徳を伝えるため、地元有志により「義民木村勝右衛門顕彰碑」が墓のある丘の上に建てられ、今も集落を見下ろしています。
参考文献
- 『義民木村勝右衛門伝』(西村英一編 朝来郡山東町越田部落、1964年)
- 『但馬史』4(宿南保 のじぎく文庫、1976年)pp.106-119
- 『山東町誌』上巻(山東町誌編集委員会編 山東町、1984年)pp.1021-1051,p.437
- 『日本経済叢書』卷十二(滝本誠一編 日本経済叢書刊行会、1915年)p.184
木村勝右衛門顕彰碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
木村勝右衛門顕彰碑
場所
兵庫県朝来市山東町越田字稲場359
備考
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