大酬恩碑(高梨利右衛門と信夫⽬安事件)
寛文6年(1666)、末期養子で領地を半減された米沢藩が預地の出羽国屋代郷(今の山形県東置賜郡高畠町・米沢市)で激しい収奪を行ったため、二井宿村肝煎の高梨利右衛門が「信夫目安」を信夫代官所に提出し、さらに江戸で越訴しようとして処刑されたという伝説があります。後にこの利右衛門を顕彰するため、地元に巨大な「大酬恩碑」が建てられました。
義民伝承の内容と背景
徳川家康による上杉征伐が「関が原の戦い」の端緒になったことからもわかるように、米沢藩上杉家は江戸時代には複雑な立場に置かれていました。ことに3代藩主・上杉綱勝が跡継ぎのないまま死去すると、上杉家は無嗣断絶の危機に陥りました。その際には会津藩主・保科正之の尽力により、「忠臣蔵」の敵役として有名な吉良義央の子・綱憲を末期養子に迎えて改易を免れますが、30万石から15万石へと大きく減封されています。
4代藩主・上杉綱憲の時代には、苦境を乗り切るため幕府に願い出て出羽国置賜郡屋代郷3万7千石を預地として重税を取り立てるとともに、専売制を強化して他所への作物の売買を禁じたため、百姓の暮らしはますます疲弊するようになりました。
そこで寛文6年(1666)、屋代郷二井宿村の肝煎・高梨利右衛門が屋代郷35か村を代表し、藩の失政など62か条を列挙した嘆願書(「信夫目安」)をしたためて信夫代官所に提出しました。代官所への嘆願では埒が明かず、利右衛門はさらに江戸での直訴を試みたものの、元禄元年(1688)に一の坂処刑場で磔にされたといいます。利右衛門は直訴にあたり、葵紋の入った箱に訴状を納めて上野寛永寺前の茶店に置き、忘れ物と誤信した店主から奉行所に届けさせるという知略を用いたという伝説も残っています。
この「信夫目安事件」で利右衛門は亡くなるものの、屋代郷は元禄2年(1689)に米沢藩支配を脱して幕府領に戻ったことから、地元では彼に感謝して刑場に名前を秘した無文の墓を建てて弔いました。また、安永7年(1778)には「極重悪人」と刻む念仏供養塔が、天明7年(1787)の百回忌には戒名入りの墓碑が、文政10年(1828)には高畠出身の儒学者・武田孫兵衛揮毫の「大酬恩碑」が建てられています。うち「大酬恩碑」は江戸末期の「屋代郷文久騒動」の際に幕吏に破却されるものの明治時代に再建され、凝灰岩としては日本最大の5メートルの高さを誇ります。
なお、屋代郷で百姓の嘆願があったことは事実ながら、当時の記録と利右衛門伝説との間に大きな齟齬があり、史実を反映していないとする説もあります。「極重悪人」の文言についても、源信が『往生要集』で「観無量寿経」の要訣を示した「極重悪人無他方便」、親鸞が「悪人正機説」を説いた『教行信証』にある「正信偈」の一文「極重悪人唯称仏」などに既にみられる表現です。
参考文献
『東洋民権百家伝』第三帙上(小室信介 国文学研究資料館、2006年)
『近世民衆の教育と政治参加』(八鍬友広 校倉書房、2001年)
大酬恩碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
大酬恩碑
場所
高畠町大字二井宿2750
備考
東北中央自動車道「南陽高畠インターチェンジ」から車で10分、高畠町立二井宿小学校の校庭東側、プール裏手の高台にあります。