享保5年(1720)、播磨国赤穂郡塩屋村と有年庄(ともに今の兵庫県赤穂市)の村々との間で入会地を巡る山論が持ち上がり、騒動の首謀者として塩屋村の五郎太夫・仁兵衛・権左衛門が打首になりました。後に村人たちは3人を祀る石地蔵3体をつくって阿弥陀堂に奉安し、今も供養が続けられています。
義民伝承の内容と背景
享保5年(1720)早春、塩屋村の山稼ぎの者たちが湯ノ内山から柴を持ち出したところ、有年庄の西有年村や、その南隣の入会村である大津村の山番がこれを見咎めて、柴や鎌・おうこ(担ぎ棒)を取り上げる騒ぎが起こりました。これに対し、塩屋村でも報復として柴売りにきた大津村の者を襲撃したことから、塩屋村と有年庄6か村との間の山論が持ち上がりました。
赤穂藩は加里屋町(今の赤穂市)年寄らを山論噯人に定め、入山許可証に当たる山札30枚を塩屋村に交付することを条件に、双方の和解を仲介しようとしましたが、塩屋村は山札50枚の交付を求めて譲らず、ついには多数の百姓が加里屋町の役所に詰めかけて強訴する事態となりました。
同年10月、赤穂藩の郡奉行らは塩屋村まで出張って10人以上を捕縛して入牢させるとともに、村役人にも閉門を申し付けて吟味を進めました。塩屋村では入牢者のために組頭以下656人が連印した赦免願を提出し、さらに当事者各村を除く藩内全村の庄屋が同様の願出をしたものの、ついに12月21日、首謀者とされた五郎太夫・仁兵衛・権左衛門の3人が打首となり、ほか10人が領外へ追放となりました。
こうして12月26日までに、山札なしでの入山はしないこと、山論については何の申し分もないことを確約する一筆を仲介人に差し入れた上で、塩屋村が山札30枚の交付を受けるいっぽう、有年組大庄屋らも藩から戸閉の処分を受けることで、この一件はようやく幕を閉じました。
強訴から5年が経った享保10年(1725)、犠牲となった3人の冥福を祈るため、台座に「釈祐正 俗名五郎太夫 享保五庚子十二月」「釈祐心 俗名仁兵衛 享保五庚子十二月」「釈祐存 俗名権左衛門 享保五庚子十二月」とそれぞれの法名・俗名・没年月を刻んだ3体の地蔵がつくられ、阿弥陀堂の境内に祀られました。これらは「山公事の地蔵」「塩屋三義人地蔵」などと呼ばれ、今でも毎年12月20日の「果ての二十日」に法要が営まれるほか、平成に入ってから地蔵の傍らに事件の経緯を伝える「三義人遺徳碑」も建てられています。
参考文献
- 河手龍海「塩浜社会に於ける山論の一形態-播州赤穂の場合について-」『文化史学』第3号(文化史学会編 文化史学会、1951年)pp.49-50
- 『幕末赤穂の一断面』(浜田稔也著作編集 浜田稔也、1984年)pp.106-136
- 『播磨の碑』(司波幸作 司波幸作、1984年)pp.272-273
- 『赤穂市史』第7巻(赤穂市史編さん専門委員編 兵庫県赤穂市、1986年)p.41
- 『赤穂の民俗』その6-塩屋編-(赤穂民俗研究会編 赤穂市教育委員会、1987年)p.137
塩屋阿弥陀堂の三地蔵の場所(地図)と交通アクセス
名称
塩屋阿弥陀堂の三地蔵
場所
兵庫県赤穂市塩屋624
備考
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