畑中喜右衛門の碑(畑中喜右衛門と子吉川の河川改修)
万治元年(1658)、出羽国由利郡滝沢郷(今の秋田県由利本荘市)庄屋の畑中喜右衛門は、子吉川の河川改修を代官に執拗に訴えて処刑されました。貞享3年(1686)、その供養のために墓碑として「畑中喜右衛門の碑」が建てられ、現在も墓前で慰霊祭が行われています。
義民伝承の内容と背景
江戸時代、日本海に注ぐ子吉川の河口南岸には本荘藩の古雪港、北岸には亀田藩の石脇港が開かれ、西廻り航路を通る北前船の寄港地として栄えました。
このため、子吉川は両港で荷降ろしされた物資を内陸の矢島藩に運んだり、逆に内陸から米や木材などの特産品を港まで運んだりする上で、たいへん重要な役割を果たしていました。
しかし、この子吉川は大雨による増水でしばしば氾濫しており、そのたびに河岸が侵食されて、明暦年間には吉沢集落の百姓屋敷12戸が危険にさらされるようになりました。
そこで、滝沢郷庄屋の畑中喜右衛門が、たびたび代官の奥山源兵衛に訴え出て河川改修を要求しますが、かえって農民を扇動して強訴に及んだとして打首になることが決まりました。
畑中喜右衛門の処刑は万治元年(1658)9月7日のことであり、その願いによって子吉川が見える吉沢村字芋が台の地が刑場として選ばれました。
畑中喜右衛門は死に臨んで我が魂はこの地にとどまり川の流れを変えるだろうと遺言し、その後の洪水によって、遺言のとおりに河道が変わり、今日のような美田地帯が生まれたと言い伝えられています。
貞享3年(1686)、吉沢の人々は畑中喜右衛門を顕彰して芋が台に碑を建立するとともに、毎年命日である9月7日には慰霊祭を営むようになり、これは現在も続いています。
「送誉浄月白智居士」(後に「清光院」の院号が追号される)の戒名と「貞享三丙寅年九月七日」の紀年銘が残る畑中喜右衛門の碑は、子吉川の河川改修の歴史を伝える貴重なものであることから、由利本荘市の史跡として指定されています。
参考文献
畑中喜右衛門の碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
畑中喜右衛門の碑
場所
秋田県由利本荘市吉沢芋ケ台地内
備考
日本海東北自動車道「本荘インターチェンジ」から車で15分。国道108号矢島街道沿いに文化財愛護シンボルマークが付いた「畑中喜右衛門の碑」の看板が立ち、側道に入るとすぐの場所にあります。