恩徳碑(内田馬之丞と打田村越訴)
江戸時代前期、紀伊国打田村(今の和歌山県紀の川市)では検地役人の怨恨から重税が課せられるようになったため、慶安2年(1649)、神官・内田馬之丞が和歌山藩主・徳川頼宣に直訴し、年貢は元に戻されました。馬之丞は明和年間に「恩徳堂」に祀られましたが、年月とともに廃れたため、明治時代になって新たに「恩徳碑」が建立されました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代初期の慶長年間、紀伊国那賀郡西大井村・東大井村(いずれも今の紀の川市)の代官に任命された高木庄右衛門・西郡五左衛門の両人は、隣接する打田村の林に目を付け、材木を伐り出すよう庄屋に命じましたが、庄屋は郡奉行と竹木奉行の許可を得なければ難しいと返答したため、両人は立腹してそのまま帰っていきました。
次の年には領内で検地がありましたが、高木・西郡の両人は同僚の役人を言いくるめて打田村の担当と交換してもらい、検地を厳しくすることで前年の怨みを晴らしました。太閤検地で803石だった村高は一気に1,748石3升7合にまで跳ね上がり、以後村は重税に苦しむようになります。
その後、紀州藩は浅野氏から事情を知らない徳川氏の支配へと変わり、ますます年貢の負担が困難になったことから、慶安元年(1648)、打田村中ノ宮神社の神官・内田馬之丞が藩主への直訴に及びました。
馬之丞は粉河詣をする藩主の一行を狙い、山王神社(今の東田中神社)の杜に潜んで直訴の機会を待ったといいますが、いったん捕縛されたものの翌年正月には赦免され、不正役人も処罰されて年貢は元に戻されたということです。
馬之丞は慶安2年(1649)3月に82歳で亡くなり、明和年間(1764~1772)には村人たちによって「恩徳堂」に祀られましたが、年月とともに廃れてしまっため、明治43年(1910)、改めて法音寺境内に「恩徳碑」が建てられました。
参考文献
『田中村郷土史』(藤波武文編 田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部、1939年)
恩徳碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
恩徳碑
場所
和歌山県紀の川市打田344番地
備考
京奈和自動車道「紀の川インターチェンジ」から車で10分、又はJR「打田駅」から地域巡回バス5分、「打田」バス停下車、徒歩3分。県道14号線の「打田」交差点を北に約100メートル進むと、法音寺正面向かって右手の外周道路沿いに碑がある。