江戸時代、折からの旱害と蝗害により飢饉に陥った和泉国日根郡馬場村(今の大阪府泉南市)では、森田小平次が他の17人とともに郷蔵を破り、村人に米を分け与えたと伝えられます。17人の身代わりとしてひとり処刑された小平次の事績を顕彰するため、昭和10年(1935)、極楽密寺の境内に「義民小平次之碑」が建てられました。
義民伝承の内容と背景
寛永元年(1624)(又は宝暦2年(1752)、寛保2年(1742)とも)の夏、和泉一国を旱魃が襲い、特に馬場村では蝗害も重なり、稲が一粒も実らない状況に陥りました。村民たちは時の岸和田藩主・松平周防守康重(ただし、宝暦・寛保説では岡部長著)に飯米を要求しますが、なかなか給付を受けることができません。
このままでは全員餓死するよりほかはないと嘆き悲しむ村人たちを見た森田小平次は、「人の世の饉餓をしらず。国を治むるの道をしらざらむつかさならむには、行末とてたのもしげなし」と無能な役人たちを見限り、みずから郷蔵の壁を切って、中に貯蔵されていた米を取り出しました。小平次は処罰を恐れる様子もなく平然としていたことから、何か子細があるのだろうと考えた17人の村人たちも後から加わり、次々に米を取り出して飢えた村人たちに分け与えました。
この事件を知った岸和田藩では、森田小平次と17人の村人たちを捕縛し、死罪に処することにしましたが、小平次が自ら発頭人であると名乗り出たため、結果として48歳の小平次ひとりのみが馬場・幡代村境の成敗所で死罪となり、他の17人は処刑を免れています。
小平次は自首するに当たり、家族や子孫の生活が安泰であるように、我が家の田高が100石に達するまでは永久に諸役米を村で肩代わりしてほしい、などの条件を出した上で、11人の組頭から証文を取ってその約束を確かなものとしました。組頭らの証文を子に与えた小平次は、「身は一世の浮沈なり、名は万代の宝玉なり」と言い遺し、17人の身代わりとして潔く死に臨んだということです。
熊取谷の「七人庄屋」のひとりだった中盛彬は、『伽李素免独語』に上記のような小平次の事績を書き記すとともに、「小平次はまことに大和魂の者といふべし」と絶賛しています。
戦前の昭和10年(1935)には、森田小平次の遺徳を顕彰するため、義民小平次顕彰会の主唱により、大阪朝日新聞の永井瓢斎が撰文した「義民小平次之碑」が極楽密寺の境内に建てられ、旧岸和田藩岡部家の当主・岡部長景臨席のもとで建碑式が行われました。
また、森田小平次の処刑日がたまたま村の鎮守の祭礼日と重なったことから、馬場村では小平次に遠慮して戸を閉めて謹慎する風習が生まれたといい、「戸閉祭」として今に続いています。
そのほか、極楽密寺の「俗名久助」とある墓碑や本堂に安置される髑髏、村中から森田家に年1石5斗を給付する経緯を記した宝暦8年(1758)の古文書などが、小平次の義民伝を傍証するものといわれます。
一方で『泉南市史』は、こうした義民伝が史実に反するものとして、寛保4年(1744)正月27日付け「小平次高之由来」などの古文書を掲げています。古文書には次のような記載があることから、寛永2年(1625)に「出入」、すなわち庄屋を相手取った訴訟に敗れて村中名代の久助が処刑されたので、以後久助の家が課役免除となったらしいことがわかります。この文書の内容に従えば、処刑は村方騒動の帰結であり、市史は「義民小平次物語は中盛彬の聞書『かりそめのひとりごと』が生み出した一篇の詩でしかなかったと断じざるを得ない」とも述べています。
小平次高之由来
一久助株ニ而御座候、久助義百十九年以前寛永二丑年庄屋前之儀ニ付、村中及出入候上、村之内壱人御仕置被仰付候、依之村中名代ニ相立一命をすて候ニ付、久助高株ニ付村中ゟ諸役指ゆるし候書付相渡、則私方ニ御座候御事(後略)
引用:『泉南市史』史料編、p.250
参考文献
『和泉史料叢書 拾遺泉州志 全』(和泉文化研究会編 和泉文化研究会、1967年)
『泉南市史』史料編(泉南市史編纂委員会編 泉南市、1982年)
義民小平次之碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
義民小平次之碑
場所
大阪府泉南市馬場1丁目16-1
備考
「義民小平次之碑」は、国道26号に隣接する極楽密寺の境内、薬師堂の右脇にあります。公共交通機関を用いる場合は、JR阪和線「和泉砂川駅」(海手西口)からさわやかバス(泉南市コミュニティバス)(砂川回り)乗車4分、「図書館・文化ホール前」バス停で下車して西に徒歩10分ほどです。マイカーの場合、阪和自動車道「泉南インターチェンジ」から10分ほどで、裏手から境内に入って駐車可能です。
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