元文3年(1738)、旗本・青山丹後守幸覃の知行地である摂津国川辺郡・武庫郡8か村(今の兵庫県尼崎市・西宮市)のうち、6か村の百姓が他領に逃散し、あわせて代官・安東茂右衛門の悪政を大阪町奉行所に訴えました。この一件で代官追放を実現したものの、召喚先の江戸で病死した浜村庄屋・庄司弥次右衛門(弥治右衛門とも)は義民と讃えられ、戦前に「義人弥治右衛門之碑」が建てられました。
義民伝承の内容と背景
しかし、翌年の享保18年(1733)に代官として下向してきた安東茂右衛門は、中間をやめる代わりに残りの年貢を相場よりも高い値段に換算して銀納するよう求めたり、飢饉の際に施した救米を返還させようとしたりするなど、苛斂誅求をもって臨みました。
享保19年(1734)に入ると、悪政に耐えかねた下大市村の庄屋や年寄らが年貢減免を求めて江戸屋敷に愁訴しますが、江戸の役人たちは安東茂右衛門と交渉するよう諭して取り合わず、百姓の不満はますます高まるばかりでした。
さらに、これまで領内8か村の農民が西宮や伊丹の商人に年貢米を引き渡していた慣例を破り、大坂商人に直接売却するようにしたため、領内百姓は近隣の商人から信用借りをして生活費を工面することもできなくなりました。
元文2年(1737)になると、青山氏の駿府在勤のため出費がかさむことを理由として、高100石につき金3両の御用金と米15石の先納米が領内に賦課されましたが、安東茂右衛門は「先納金米相調不申候ハヽ百性共家屋敷田畑差置急ニ何方ヘ成共立退候得」と、もし支払いができないならば家や田畑を捨ててどこへでも立ち退くよう放言したということです。
翌元文3年(1738)、安東茂右衛門は唐突に御用金や先納米の期限を7月10日、7月5日、7月3日と3度にわたって繰り上げたため、期限前日の7月2日、困惑した武庫郡下新田村(今の西宮市)の百姓らが村の入口に「是悲なく立去り申候」と書いた立て札を残して「家出」をはじめるとともに、大坂町奉行所に訴状を投げ込みました。
これを皮切りに近隣の村々でも他領への逃散が続いたため、領内8か村のうち川辺郡次屋村・浜村・水堂(水戸)村(今の尼崎市)、武庫郡下新田村・下大市村・中村(今の西宮市)のあわせて6か村を巻き込む大事件となり、村に残るのはわずかに庄屋らだけになってしまったといいます。
特に、下大市村惣百姓の車連判を添えて大坂町奉行所に提出された訴状の中には、年貢米の吟味役人が村方に派遣された際、粗末な料理を供応されたことに激怒して安東茂右衛門に告げ口したため、「名代ニ遣し申ものニ不料理いたし候義勘忍難成」として、村役人が手錠を掛けられる処罰を受けたことが記されており、当時の役人の横暴ぶりがうかがえます。
大坂町奉行所は訴状を受理して江戸に回付することに決めたため、逃散した百姓たちは同年7月中には帰村しましたが、その後、取調べのために6か村の庄屋らが江戸に召喚され、元文4年(1739)4月になって幕府からの裁許が下されました。
代官の安東茂右衛門は「村方取計不宜」として追放となりましたが、本件の頭取とみられた下大市村庄屋六左衛門は伊豆へ遠島、下新田村庄屋弥兵衛・浜村庄屋弥次右衛門・中村庄屋甚兵衛は重追放、川辺郡潮江村(今の尼崎市)にいた大庄屋勘兵衛も戸〆、他の百姓の中にも過料銭として100石につき10貫文宛を申し渡された者がありました。うち次屋村孫兵衛は裁許前に牢死しており、浜村弥次右衛門も病気により溜預となり、そのまま同年5月16日に亡くなっています。
江戸で病死した庄司弥次右衛門には「釈秀観」の法名が授けられ、潮江村の教専寺に葬られたと伝えられるほか、かつて次屋・浜両村鎮守の伊邪那岐神社境内にあった「出立の権現」と称する小祠も弥次右衛門を祀ったものとされています。
村人たちが旅行安全を盛んに祈願していた「出立の権現」は、伊邪那岐神社の社殿再建に伴い明治8年(1875)に廃絶したため、昭和14年(1939)、弥次右衛門の子孫の主唱により、尼崎市が改めて同境内に「義人弥次右衛門之碑」を建立しました。
義人弥治右衛門之碑
抑弥治右衛門ハ野村氏ノ祖ニシテ累祖尼崎
市浜ニ住セリ享保元文ノ頃其ノ領主施政ヲ
失シ苛斂誅求至ラサルナク村民為二塗炭ニ
泣キ衷ヲ幕府ニ愬ヘムトス弥治右衛門時ニ
庄屋タリ齢既ニ八十五才安民ノ義心遏ム能
ハス余生ヲ郷党ニ捧ケ一死以テ此ノ窮境ヲ
済ハムト志シ後事ヲ神崎ノ某ニ托シ老躯ヲ
挺シテ単身江戸ニ赴カムトス衆皆之止ム
ルモ可カサルヲ以テ領内次屋ノ人孫兵衛ト
謂フ者ヲシテ強ヒテ其ノ輔タラシム弥治右
衛門乃チ江戸ニ到ルヤ幕府ノ忌諱ニ触レ伝
馬町ノ獄ニ投セラレ幽囚四年遂ニ節ヲ屈セ
ス元文四己未年五月十六日齡八十八歳ヲ以
テ囹圄ノ裡ニ歿ス村民其ノ訃ヲ伝聞キテ咨
嗟痛歎相議リテ塋墓ヲ潮江教専寺境内ニ営
ミ法名ヲ釈秀観ト称へ敬慕措カス爾来傭貢
遽ニ緩和シ郷閭始メテ其ノ堵ニ安シ喜色野
ニ満テリ以テ深ク之ヲ故人ノ徳トシ世伝ヘ
テ義人ト為セリ 星霜移リ時逝キテ当年ノ
義蹟今ヤ漸ク瞢然タリ裔孫野村良三氏親父ノ
志ヲ襲キ祖業ノ世ト倶ニ湮滅セムコトヲ
憾トシ乃チ資ヲ齎シテ尼崎市二議ルニ建碑
ノ挙ヲ以テス慮フニ古ノ弥次右衛門ハ済世
殉節ノ志ナリ而シテ其ノ児孫報本ノ道ヲ篤
クセムトスルハ人倫ノ大経ナリ予乃チ祖孫
其ノ徳ヲ侔シクスルモノアルヲ懌ヒ其ノ議
ヲ容レテ碑ヲ建テ由来ヲ勒シテ以テ後人ニ
伝フ
昭和十四年二月十一日
尼崎市長従四位勲四等有吉 実建之
正六位 福田信次撰文
陸軍中将正四位勲三等功三級権藤伝次題字
碑文によれば、享保・元文の頃、85歳の浜村庄屋弥治(次)右衛門は、余生を郷土のために捧げようと、65歳の次屋村庄屋孫兵衛を介添役に、みずから率先して江戸に登り、死罪を覚悟で青山氏の悪政を幕府に訴えたということです。これにより百姓の負担は軽減されたものの、幕府の忌諱に触れた弥治(次)右衛門は、4年にわたり江戸伝馬町の牢屋敷に入れられ、ついに獄死したとされています。
碑文にある訴えとは8代将軍・徳川吉宗の行列に対する直訴ともいわれますが、いずれにしても地方文書から裏付けられる史実とはかなりの相違があることから、下総国の佐倉宗吾の例などを踏まえて、比較的新しい時代につくられた義民伝説ではないかともいわれます。
参考文献
- 『元文三年西摂津、青山丹後守領村々百姓逃散一件関係史料』(八木哲浩蒐集作製 兵庫史学会、1954年)p.4,53
- 平清次「いはゆる義民庄司弥次右衛門について(上)」『兵庫史学』第6号(兵庫史学会編 兵庫史学会、1955年)pp.9-15
- 平清次「いはゆる義民庄司弥次右衛門について(下)」『兵庫史学』第7号(兵庫史学会編 兵庫史学会、1956年)pp.1-7
- 『近世の農村生活』(高尾一彦 創元社、1958年)pp.140-149
- 『尼崎市史』第2巻(岡本静心編集代表 尼崎市役所、1968年)pp.441-448
- 小野寺逸也「義民伝説の成立と再生-元文三年摂津旗本青山領逃散をめぐる-」『兵庫史学』第60号(兵庫史学会編 兵庫史学会、1973年)pp.39-50
義人弥治右衛門之碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
義人弥治右衛門之碑
場所
兵庫県尼崎市次屋1丁目1-6
備考
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百姓の江戸時代 (ちくま学芸文庫 タ 54-1) 