与七の墓(鳥取藩元文一揆と木料村与七)

与七の墓 義民の史跡
鳥取藩に祟りをなしたという元文一揆の頭取の墓
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江戸時代中期の元文4年(1739)、鳥取藩領の因幡・伯耆両国(今の鳥取県)で大規模な全藩一揆「元文一揆」が勃発しました。伯耆国汗入郡木料村(今の西伯郡名和町)の与七は、富農を襲い借銀を10年賦にするよう強要したなどの罪状で処刑され、その墓が祟りをなしたという伝説があります。

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義民伝承の内容と背景

鳥取藩領の因幡・伯耆両国では、元禄11年(1698)から豊凶によらず年貢を一定にし、大庄屋に徴収を請け負わせる「請免制」が施行されていました。

元文3年(1738)には長雨による洪水で因伯両国あわせて3万石以上の被害が生じましたが、郡代・米村所平広当ひろまさ以下の役人たちは平生どおりに年貢を取り立て、年貢未進のため入牢を申し付けられる百姓が相次いだといいます。

こうした中、因幡国八東郡東村(今の鳥取県八頭郡八頭町)の松田勘右衛門は、伯耆国に潜行した弟の武源治を介して久米郡中田村(今の鳥取県倉吉市)の勘兵衛らと示し合わせ、因伯両国の百姓による強訴をもって、年貢減免や役人の交替などの要求を藩に認めさせようと画策しました。

そして元文4年(1739)2月、いよいよ因幡国の3万人に伯耆国からの2万人が合流する未曽有の全藩一揆「元文一揆」が勃発します。一揆勢は各地の大庄屋宅などを打ちこわしながら鳥取城下を目指して進み、千代川沿いの河原に続々と集結しました。

鳥取藩では百姓側からの願書を受け取るとともに、郡代の米村所平を閉門にするなどして鎮圧に努め、要求を一部容認する旨の回答を受けた百姓たちは、城下侵入に失敗したこともあり、河原を離れてそれぞれの村に帰っていきました。

一方、伯耆国では回答に不満の勢力が4月まで抵抗を続け、久米・八橋両郡では大勢の百姓が豪農宅を襲い、5年賦の借銀証文を無理やり10年賦に書き換えさせたと『因府年表』にみえています。

汗入郡木料村の与七もこうした騒動の首謀者の一人と目され、捕らえられて4月27日に獄門に処せられました。当時の『御目付日記』には、下のとおり与七に申し渡された判決文が載せられており、処刑に至った経緯がうかがえます。

汗入郡木料村 与七

   申渡シ

先頃因伯御百姓共願之筋依有之及騒動ニ付、願之筋御聞届被遣夫々御返答被仰出、其上御条目等被仰渡候処、其儀を不致許容剰一切之借銀十年賦致サセ証文取候段、御吟味之上及白状候、御上ヲ軽メ候条前代未聞依為重罪、御刑罰已後梟首被仰付

  未四月廿七日

引用:『日本庶民生活史料集成』第6巻、p.116

木料海岸沿いの崖地には、今でも「元文四未年 帰空的応宗端信士」と彫られた与七の墓石が、妻の墓石と並べて祀られています。地元の伝承として『名和町誌』や『山陰の民話』が記すところでは、与七は富永村(今の名和町)国谷家の番頭であり、一揆を鎮めようとしたところがかえって首謀者として捕らえられ、国谷家が助命に奔走するのもむなしく、ついに処刑されてしまったといわれます。その後、米子城と鳥取城との間を往来する武士たちが墓の近くで腹痛を催したり、木料沖に差し掛かった藩船が時化しけに遭うなどの祟りがあったため、墓を陸側の上木料から海辺の下木料の現在地に移した上、墓石正面が崖側に向くようにしたところ、ようやく祟りはやんだということです。

参考文献

『因伯民乱太平記』(咄聴堂集書先生著、原田久美子校訂・編 関西地方史研究者協議会、1953年)
『日本庶民生活史料集成』第6巻(谷川健一ほか編 三一書房、1968年)
『山陰の民話』第7集(佐藤徳尭 中央出版、1971年)
『名和町誌』(名和町誌編さん委員会編 名和町、1978年)
『鳥取県史』第3巻 近世 政治(鳥取県編 鳥取県、1979年)

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与七の墓の場所(地図)と交通アクセス

名称

与七の墓

場所

鳥取県西伯郡大山町豊成

備考

「与七の墓」は、木料海岸に沿って走る鳥取県道269号松河原名和線の西側の崖地上にあり、県道側から登れるよう、上り口に階段と手すりが設置されています。公共交通機関を用いる場合は、JR山陰本線・境線「米子駅」から日本交通バス(下市線)乗車50分、「木料」バス停で下車して北に徒歩15分ほどです。マイカーの場合、山陰自動車道「名和インターチェンジ」から10分ほどで、墓の下は空き地となっており、ごみ集積所のボックスが置かれています。

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