諸岡太左衛門の墓(諸岡太左衛門の門訴)

諸岡太左衛門の墓
領主への直訴の末に牢死した百姓の墓

2023年6月3日義民の史跡

天明5年(1785)、上総国天羽郡金谷村(今の千葉県富津市)百姓・諸岡太左衛門が在地役人の横暴を旗本・白須政雍(まさちか)の江戸屋敷に門訴し、年貢増徴などの取止めが決まったものの、入牢の末に獄死しました。菩提寺の華蔵院には太左衛門の墓が営まれ、富津市史跡に指定されています。

義民伝承の内容と背景

江戸中期の頃の上総国天羽郡金谷村は旗本・白須甲斐守政雍の知行地でしたが、「天明の飢饉」のさなかの天明4年(1784)に年貢8石増が命じられ、翌天明5年(1785)には「鉈止め」「鎌止め」と称して鋸山の入会地で樹木を伐採し薪炭を採取することが禁じられたため、田畑の持高が少なく山稼ぎで生計を立てている零細百姓の生活は困難を極めました。

金谷村の名主らは地頭所において嘆願を行うものの聞き届けられなかったため、天明5年(1785)、金谷村の百姓・諸岡太左衛門が同村の惣兵衛はじめ85名で江戸麹町の白須邸に押しかけ、役人の横暴を領主に直接訴えました。

その結果として「鉈止め」や年貢増徴の一件は旧に復しましたが、徒党を組んで門訴をした罪で入牢の末、翌年の天明6年(1786)1月7日、諸岡太左衛門は45歳で獄死しました。

同年3月には勘定奉行・桑原伊予守盛貞から諸岡太左衛門に遠島、惣兵衛に居村及び江戸払いの刑がそれぞれ申し渡されました。一方で同行の惣兵衛はとりあえず釈放されて所払いに、他の百姓も手鎖や過料となり重刑は回避されました。

諸岡太左衛門の罪はのちに赦免されて供養が認められたことから、菩提寺の華蔵院にはその徳を仰ぎ「梅香了運居士」の戒名を刻んだ墓が営まれ、今では地元富津市の史跡として指定されています。

参考文献

『富津市史』通史(富津市史編さん委員会 富津市、1982年)
『千葉県君津郡誌』下(千葉県君津郡教育会 千葉県君津郡教育会、1927年)

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諸岡太左衛門の墓の場所(地図)と交通アクセス

名称

諸岡太左衛門の墓

場所

千葉県富津市金谷2413

備考

富津館山道路「富津金谷インターチェンジ」から車で5分。「華蔵院」は浜金谷駅のすぐ裏手にあり、境内の「諸岡太左衛門の墓」には囲いが設けられ、富津市教育委員会の史跡案内板が掲示されています。

このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)