天明7年(1787)、赤穂藩領の播磨国赤穂郡相生村(今の兵庫県相生市)において、困窮する村人たちが商家6軒を打ちこわす「家潰し騒動」が起きました。藩は同村の九助ひとりを頭取と断じて死罪に処し、北坂峠に梟首したことから、九助の菩提を弔うために「北坂地蔵」が祀られ、今に至るまで供養が続けられています。
義民伝承の内容と背景
相生村庄屋・弥八郎らは、村人2,200人余りのうち、1,700人余りが「沖挊、又ハ魚売ニて日〻相挊者」のため困窮し、430人余りが返済さえも不能として、あわせて200石ほどの借米を赤穂藩に求めましたが、なかなか許しを得ることができませんでした。
同年6月17日夜になると、村内の角谷池の堤に500人ほどの村人が集まり鬨の声を上げました。驚いた組頭らが急行し、もしも願いの筋があれば庄屋・年寄を通じて藩に届け出るので鎮まるようにと説得したものの、かえって砂や石を投げつけられたといいます。
そうこうしているうちに米屋の渡海屋庄五郎宅に一揆勢が押し寄せ、屋敷や土蔵、長持、仏壇などを打ちこわし、他にも5件の商家に波及しましたが、問屋の半右衛門が間に入って説得に努めたため、夜が明けるに及んでようやく終息しました。
翌日からは100人以上の役人が相生村入りし、郡奉行・藤田貢は弥八郎宅、物頭・小林多聞は半右衛門宅、同じく青山左司馬は光明寺に滞在して関係者の召捕をはじめました。また、遅まきながら21日以降、藩から1人当たり3合の救米も支給されています。
役人たちが頭取は誰かと問いただしても、村人たちは「たれと申事知不申候」と答えるなど取調べは難航しましたが、当日の所在が不明な21人を赤穂城下の加里屋町(今の赤穂市)まで連行して厳しく問い詰めた結果、7月までに九助が頭取だということがわかり、入牢の上10月9日に尾崎川原で死罪となり、相生村の北坂峠で獄門に掛けられました。
村人たちは九助の霊を慰めるため、首が晒された場所に「天明七未年 南無阿弥陀仏 十月十日」と刻む地蔵尊を建立し、今も奉賛会が組織され「北坂地蔵」として供養が行われています。
参考文献
- 『兵庫県史』第4巻(兵庫県史編集専門委員会編 兵庫県、1979年)pp.819-823
- 『相生市史』第3巻(相生市史編纂専門委員会編 相生市、1988年)pp.7-19
北坂地蔵の場所(地図)と交通アクセス
名称
北坂地蔵
場所
兵庫県相生市相生字焼山
備考
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編年 百姓一揆史料集成19