天明2年(1782)、木綿の不作で困窮する和泉国(今の大阪府)一橋領54か村では、年貢の減免や延納を求めて多くの百姓が集会を催し、年貢銀の徴収に当たる下掛屋が打ちこわされました。この「千原騒動」で合図の法螺貝が吹かれた山が「貝吹山」と呼ばれ現地に残るほか、一揆指導者である土井忠兵衛の墓も菩提寺の境内に建てられています。
義民伝承の内容と背景
ところが、同年8月5日に村々の庄屋が府中代官所に集められ、不作にもかかわらず例年どおり年貢を納入するようにとの申渡しを受けました。そこで年貢の減免と納期の繰延べを求めるべく、発頭人の新家村勘七はじめ、富木村忠兵衛や土生村(いずれも今の高石市)了意らが中心となり、8月7日に草部村(今の堺市)の元禄堤で、8月16日から19日にかけては黒鳥村(今の和泉市)の牛神山で、領内百姓による大規模な集会が催されました。
事態を受けて代官所から説得を命じられた庄屋たちは、牛神山に赴いた上で、年貢の延納や拝借銀などの要望を願書にしたためて代官所に提出すると説明したため、このときいったんは百姓たちも納得し、それぞれの村へと帰っています。
翌8月20日には御館山に千人ほどの百姓が集まり、庄屋たちから願書の受理状況を聞いていますが、代官所では決めかねるので願書を江戸に注進して指示を仰ぐという回答に憤慨した一部の百姓が、とうとう千原村(今の泉大津市)庄屋・川上左助宅の打ちこわしをはじめました。川上家は一橋領内から銀納される年貢を取り集める「下掛屋」を兼ねており、銀納の際に「入目銀」と呼ばれる手数料を徴収し、日頃から百姓の恨みを買っていたためです。
この打ちこわしに当たり、太村(今の和泉市)にある帆立貝式前方後円墳「人集山」の上で法螺貝を吹き鳴らして人数を集めたことから、以後「貝吹山」と呼ぶようになったという言伝えもあります。
8月21日、府中代官所からの報告を受けた幕府大坂代官の出兵要請に応じ、岸和田藩が物頭など150人を派遣、伯方藩や堺奉行所も出動し、事態は終息に向かいましたが、その後8月25日に一揆指導者の一人である富木村の土井忠兵衛が捕縛されたのをはじめ、多くの百姓が捕縛されたり、堺奉行所から出頭を命じられてそのまま入牢したりしました。
やがて彼らの身柄は大阪西町奉行所に移され吟味の末、9月18日に判決の申渡しがありましたが、新家村勘七が死罪、富木村忠兵衛や土生村了意ら5人が遠島、その他入墨・敲などをあわせて122人が処罰を受けています。うち死罪の勘七や遠島5人中の3人は判決時既に牢死しており、忠兵衛や了意も隠岐へ向かう前に牢死するなど、過酷な取扱いを受けていたことがうかがわれます。
この「千原騒動」の結果、下掛屋は廃止されて年貢銀を大坂の掛屋に直接納付すればよいことになったほか、年貢の延納も認められるなど、根本的な解決には至らないものの、いくばくかの負担軽減が図られました。
富木村は竹細工の籠が名産であり、地元では籠講が組織され、土井忠兵衛はこの籠講に田地を寄付していました。こうした縁から明治37年(1904)、籠講の人々が中心となって、菩提寺である楷定寺の境内に「伝へきく 其真心は 末の世の いしふみに咲く 埋れ木の花」という歌を刻んだ土井忠兵衛の墓が建てられ、今でも毎年追悼法要が行われています。
参考文献
『地方史研究の諸視角』(安藤精一先生還暦記念論文集出版会編 国書刊行会、1982年)
『高石市史』第1巻(高石市史編纂会編 高石市、1989年)
貝吹山の場所(地図)と交通アクセス
名称
貝吹山
場所
大阪府和泉市太町
備考
「貝吹山」は、大阪府道36号泉大津美原線の「太町」交差点の北50メートル、県道沿いのセブン-イレブン和泉尾井町2丁目店から100メートルほどの位置にあります。公共交通機関を用いる場合は、JR阪和線「北信太駅」を降りて南へ徒歩3分、又は「和泉府中駅」から南海バス(鶴山台団地線)乗車10分、「北信太駅筋」バス停下車すぐです。マイカーの場合は、堺泉北道路「取石出入口」から5分ほどですが、現地に専用駐車場はなく、近隣コインパーキング(1回500円)の利用となります。この山は全長60メートル、高さ7.7メートルの帆立貝式古墳で、入口に和泉市教育委員会による「和泉市指定史跡 信太貝吹山古墳」と題する案内板が設置されていますが、発掘調査現地説明会などの特別な機会がない限り、平素は施錠され内部への立入りができません。
関連する他の史跡の写真

