朝来村三兵衛墓(三兵衛の義民伝承)

朝来村三兵衛墓
毛見に反対し簀巻きにされたと伝わる義民の墓

2023年4月27日義民の史跡

江戸時代、紀州藩田辺領内では郡奉行と代官による毛見が重複して行われており、接待に当たる百姓の煩いの種となっていました。紀伊国朝来村(今の和歌山県上富田町)の三兵衛は、郡奉行の毛見は無益と主張し、簀巻きにされ海中に沈められたと伝えられています。地元の円鏡寺には三兵衛の墓が残ります。

義民伝承の内容と背景

江戸時代、紀州藩田辺領では年貢高を決めるための作柄調査に当たる「毛見」を、郡奉行と代官とが重複して行っていたため、役人の接待に当たる村々の負担は大きく、百姓の煩いの種となっていました。そこで紀伊国牟婁郡朝来村の三兵衛は、近隣の庄屋らとともに、郡奉行による巡検は無益であると訴え出ました。

やがて代官の取調べが始まると、庄屋らは処罰を恐れて三兵衛に責任を押し付けたため、三兵衛は西ノ谷村(今の田辺市)の牢に入れられました。そして獄中でも主張を曲げなかった三兵衛は、上に逆らう者として簀巻きにされ、西ノ谷村天神崎の海中に投じられたと伝えられています。

このことがあった翌年、郡奉行の毛見は廃止されたため、人々は三兵衛の義挙を長く語り継いできました。円鏡寺境内には「鉄堂祖心信士」の戒名と文政9年(1826)5月26日の銘を刻む自然石の墓碑が残されています。

また、三兵衛は生前によく赤い鉢巻をしており、亡くなった後に頭に赤い筋が入った夜盗虫(よとうむし)が大量発生したことから、三兵衛の祟りによる「三兵衛虫」と恐れられました。

もっとも、『上富田町史』は『万代記』の記述をもとに、三兵衛は文政4年(1821)10月17日に入牢し、「永牢」に当たる「牢腐」(ろうくたし)の刑を受け、少なくとも文政8年(1825)までは生きていたことを明らかにしており、史実は伝説とは異なる可能性があります。

参考文献

『上富田町史』第1巻 通史編(上富田町史編さん委員会編 上富田町、1998年)
『熊野の民俗と歴史』(杉中浩一郎 清文堂出版、1998年)
『万代記』87(田辺市文化財審議会・田辺市教育委員会編 田辺市教育委員会、1990年)

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朝来村三兵衛墓の場所(地図)と交通アクセス

名称

朝来村三兵衛墓

場所

和歌山県西牟婁郡上富田町朝来1036番地

備考

円鏡寺入口に案内板があり、山門をくぐって境内左奥に進むと「鉄堂祖心信士」と刻む墓碑がある。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)