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義民の史跡

助六の首塚(福田助六と助六騒動)

安永7年(1778)、過重な年貢や助郷役の負担に耐えかねた常陸国新治郡(今の茨城県)本堂氏領25か村の百姓が江戸屋敷に強訴し、下佐谷村(今のかすみがうら市)名主の福田助六が頭取として獄門に処せられまし...
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慈眼寺(細野冉兵衛と志戸崎騒動)

天保5年(1834)、常陸国新治郡坂村(今の茨城県かすみがうら市)において、名主が土浦藩の役人と結託して不正を企てた疑惑を調べていた百姓・貝塚恒助が役人に捕縛されたため、東郷名主惣代・細野冉兵衛ぜんべ...
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牛久助郷一揆道標(小池村勇七と牛久助郷一揆)

文化元年(1804)、水戸街道での助郷拡大に反対するため、常陸国信太郡小池村(今の茨城県稲敷郡阿見町)百姓・勇七らを筆頭に女化原に6千人が集まる一揆が発生し、牛久宿(今の牛久市)の麻屋治左衛門宅などを...
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義民の史跡

照山修理の墓(照山修理と検地反対強訴)

寛永18年(1641)、常陸国多賀郡金沢村(今の茨城県日立市)庄屋・照山修理しゅりは、水戸藩の寛永検地に反対して強訴に及んだため磔刑に処せられました。しかし、藩も検地の際に縄延びさせて課税面積が少なく...
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遺跡義民佐七一族累代之墓(義民腹切り佐七の伝承)

江戸時代の享保年間、常陸国那珂郡三反田村(今の茨城県ひたちなか市)庄屋の平沢佐七は、飢饉に際して水戸藩の郷蔵を無断で開放し、百姓に穀物を分け与えた上で切腹したといいます。佐七の塚には明治時代に霊堂が建...
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義民地蔵(磯部村清太夫と山外郷一揆)

寛延2年(1749)、笠間藩は凶作下で定免法への切替えを強行したため、常陸国茨城郡磯部村(今の茨城県桜川市)名主で磯部神社神主の清太夫ら山外郷27か村1千人が笠間城下で強訴に及びました。藩は一旦は要求...
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北郷開樋殉難者之碑(鳴尾の義民と天正北郷樋事件)

天正19年(1591)、干魃に悩む摂津国武庫郡鳴尾村(今の兵庫県西宮市)は枝川上流の瓦林村(同市)から無断引水し、両村百姓の乱闘事件に発展しました。結果として鳴尾村の取水権は認められたものの、豊臣政権...
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浅川陣屋刑場跡碑(大竹半十郎と浅川騒動)

寛政10年(1798)、高田藩領である浅川陣屋支配の村々において、大庄屋や駒付役らによる年貢諸役の私的流用に憤った百姓が蜂起する「浅川騒動」が起こりました。藩は大庄屋らを罷免したものの、一揆首謀者とし...
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戸塚義民の墓(戸塚村善兵衛と戸塚騒動)

寛延2年(1749)、陸奥国白川郡戸塚村(今の福島県東白川郡矢祭町)では2年続きの不作で百姓が困窮し、塙代官所に年貢延納や金米借用を強訴する「戸塚騒動」が勃発しました。翌寛延3年(1750)2月には代...
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菅野八郎自刻之碑(菅野八郎と信達世直し一揆)

慶応2年(1866)、幕府が生糸・蚕種の売買に改印制を導入して冥加金を徴収しようとしたことに反対し、陸奥国信夫・伊達両郡の百姓が蜂起し、役人と結託した商家の打ちこわしを行いました。この「信達世直し一揆...
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義民斎藤彦内墓所(斎藤彦内と寛延信達一揆)

寛延2年(1749)、冷害による凶作に見舞われた桑折代官所支配68か村の百姓は、年貢減免を求めて代官所を取り囲む強訴に及びました。この「寛延信達一揆」の後、年貢は引き下げられましたが、陸奥国伊達郡長倉...
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柿の木地蔵(中尾重兵衛と篠山藩越訴)

元和7年(1621)、篠山藩は不作につき柿などの生木物(なりきもの)の上納を領内に命じました。飢えに苦しむ百姓を見かねた丹波国多紀郡二ノ坪村(今の兵庫県丹波篠山市)の中尾重兵衛らが京都所司代に越訴し、...
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