義民の史跡 天保大一揆発祥之地碑(吉部村弥右衛門と防長大一揆) 天保2年(1831)、長州藩の専売制強化などへの不満から、周防・長門(今の山口県)両国の約10万人が参加する全藩一揆「防長大一揆」が発生し、各地の庄屋宅などを打ちこわして回りました。一揆は藩兵により鎮... 2023.05.04 義民の史跡
義民の史跡 天草四郎時貞の墓碑(益田時貞と島原の乱) 寛永14年(1637)、過酷な徴税とキリシタン迫害に耐えかねた島原・天草の民衆3万7千人が益田四郎を総大将に蜂起し、原城に籠城しましたが、幕府軍の総攻撃の前に全滅しました。今日でも現地にはこの「島原の... 2023.05.03 義民の史跡
義民の史跡 八竜天神社(高松八郎兵衛と久留米藩大一揆) 宝暦4年(1754)、久留米藩の人別銀賦課に端を発して、数万人規模の百姓が参加する全藩一揆「久留米藩大一揆」が勃発します。藩は人別銀を撤回するものの、責任追及のため300人以上を捕縛、御原郡大庄屋・高... 2023.05.02 義民の史跡
義民の史跡 赤尾丹治翁顕徳碑(赤尾丹治と文化一揆) 岡藩から起こった「文化大一揆」の影響を受け、文化9年(1812)、豊前国(大分県)でも井堰工事に係る加免や新税賦課に反対する百姓が蜂起し、庄屋宅などを打ちこわしました。この一揆の首謀者として下赤尾村丹... 2023.05.01 義民の史跡
義民の史跡 源右衛門・市三郎の墓(小和田組源右衛門と恵蘇郡一揆) 天明6年(1786)、備後国(今の広島県)恵蘇郡で飢饉と村役人の不正を理由に百姓が蜂起し、およそ5千人が山王原に集結しました。広島藩が願書を受け取り年貢減免などを約束したため解散しましたが、後に頭取と... 2023.04.30 義民の史跡
義民の史跡 二義少年碑(松原清介と長野村百姓一揆) 長州藩の益田氏給地となっていた周防国長野村(今の山口県山口市)は重税や課役に苦しみ、代官に訴えても叱責を受けるのみでした。そこで宝永7年(1710)、庄屋の子である松原清介と友人の常田角左衛門が藩主に... 2023.04.29 義民の史跡
義民の史跡 義少年合同の碑(二義少年と恋路・七房村水論) 江戸時代前期の寛文年間、周防国恋路村(今の山口県山口市)の2人の少年が、旱害に悩む村人のために宮野川上流の井手を切り、無断で川の水を村の水田まで引き入れました。この一件は上流の村との水論となって容易に... 2023.04.28 義民の史跡
義民の史跡 朝来村三兵衛墓(三兵衛の義民伝承) 江戸時代、紀州藩田辺領内では郡奉行と代官による毛見が重複して行われており、接待に当たる百姓の煩いの種となっていました。紀伊国朝来村(今の和歌山県上富田町)の三兵衛は、郡奉行の毛見は無益と主張し、簀巻き... 2023.04.27 義民の史跡
義民の史跡 迎え地蔵尊(井上吉右衛門と郷中騒動) 明和6年(1769)、不作に見舞われた河内国(大阪府)丹南藩領では、多数の百姓が屯集して寄合を開くなど不穏となり、村役人の中にも年貢納入を拒否する者が現れました。この「郷中騒動」では多数の庄屋らが牢死... 2023.04.26 義民の史跡
義民の史跡 光国稲荷(赤松源右衛門と享保一揆) 享保18年(1733)、丹後国(京都府)田辺城下で年貢率引下げや夫食米貸与を要求する「享保一揆」が起こり、藩は役人を罷免するとともに百姓側の要求を認めました。後になって二箇村年寄・赤松源右衛門が捕らえ... 2023.04.25 義民の史跡
義民の史跡 定藤仙助の墓(定藤仙助と明和一揆) 明和7年(1770年)、備後国(今の広島県)福山藩領で凶作下での年貢増徴に反対する「明和一揆」が起こりました。結果として借米の年賦払いなどの要求が認められたものの、下竹田村庄屋・定藤仙助らが打首獄門と... 2023.04.24 義民の史跡
義民の史跡 恩徳碑(内田馬之丞と打田村越訴) 江戸時代前期、紀伊国打田村(今の和歌山県紀の川市)では検地役人の怨恨から重税が課せられるようになったため、慶安2年(1649)、神官・内田馬之丞が和歌山藩主・徳川頼宣に直訴し、年貢は元に戻されました。... 2023.04.23 義民の史跡