広告
義民の史跡

青田神社(佐藤仁左衛門と延宝騒動)

延宝7年(1679)、生駒領の出羽国矢島郷(今の秋田県由利本荘市)で重臣の山本一家が増税を強いたため、百姓が江戸に直訴して山本一家は失脚しました。代わって台頭した城代家老・市橋彦兵衛も搾取を続けたため...
義民の史跡

昆野八郎右エ門神社(昆野八郎右衛門と釘子村越訴)

天和2年(1682)、陸奥国磐井郡釘子村(今の岩手県一関市)の地肝煎・昆野八郎右衛門は、重税で疲弊する農民を救うため仙台藩主に直訴し、刑死したといわれています。その後、釘子村では年貢が軽減され穀納から...
義民の史跡

切牛(佐々木)弥五兵衛の墓(弘化・嘉永三閉伊一揆)

弘化4年(1847)、陸奥国(今の岩手県)盛岡藩主・南部利済の悪政に対し、三閉伊通の百姓1万人以上が決起し、切牛の弥五兵衛指導の下、新税撤廃などを要求して遠野城下に強訴しました。藩は百姓の要求を認め、...
広告
義民の史跡

川合伊左衛門・川合久右衛門之碑(義民伊左久右の伝承)

天和元年(1681)、不漁・不作による困窮から三河国渥美郡中山村(今の愛知県田原市)庄屋の河合伊左衛門らが御領林の立木払下げを領主の旗本・清水権之助に直訴し、代官の讒言で斬罪となりました。地元では「義...
義民の史跡

義人の碑(蔵川村吉右衛門と蔵川騒動)

明和7年(1770)、凶作が続く大洲藩領の伊予国喜多郡蔵川村(今の愛媛県大洲市)では、多数の百姓が宇和島藩領に逃散する「蔵川騒動」が起こります。大洲藩は首謀者を突き止めようとして庄屋や組頭らを入牢させ...
義民の史跡

和田の佐助顕彰碑(和田佐助の義民伝承)

万治3年(1660)、越中国砺波郡佐野村(今の富山県高岡市)で和田野の町建てを行い、その肝煎となっていた佐助は、困窮農民を救うために隠田開発をし、露見して磔刑に処せられたと伝えられています。後に和田村...
義民の史跡

義人平野源蔵・竹本庄右衛門顕彰碑(平野源蔵と11か村入会山論)

江戸時代の寛文年間、三河国(今の愛知県)宝飯郡で入会山論が起き、広石村庄屋・平野源蔵と組頭・竹本庄右衛門が地元9か村を代表して幕府の牛久保代官所に直訴しました。罪に問われた平野源蔵と竹本庄右衛門は寛文...
義民の史跡

芦ノ湖水神社(友野与右衛門の義民伝承)

駿河国駿東郡深良村(今の静岡県裾野市)周辺の村々では水不足が続いていたため、元締・友野与右衛門らの指導のもと、芦ノ湖を水源とした箱根用水開削の大工事が行われ、現在もその水は大地を潤しています。しかし、...
義民の史跡

義民供養の石地蔵(伊深義民事件)

天和2年(1682)、旗本・佐藤継成の知行所だった美濃国加茂郡伊深村(今の岐阜県美濃加茂市)では、不作で困窮した百姓らの代表が江戸に上りに年貢減免を幕府目付に越訴し、うち多数が牢死又は死罪となりました...
義民の史跡

庄右衛門堂(田頭庄右衛門と土生騒動)

江戸時代、伊予国越智郡の弓削島(今の愛媛県越智郡上島町)は今治藩が支配していましたが、宝永5年(1708)以降、災害を理由に組頭の田頭庄右衛門らが庄屋宅に押し掛け年貢減免をたびたび要求し、3人が斬首獄...
義民の史跡

長恩院石塔(田辺小兵衛の義民伝承)

正保2年(1645)、越後国蒲原郡馬堀村(今の新潟県新潟市)庄屋・田辺小兵衛は、干魃に悩む村人のために「馬堀用水路」を開削したものの、幕府役人から独断で工事を行った責任を問われ自殺したといいます。宝暦...
義民の史跡

栂野彦八顕彰碑(栂野彦八の義民伝承)

文化3年(1806)、越中国婦負郡四方町(今の富山県富山市)の町年寄・栂野彦八は、漁民による行商を禁じた郡奉行を諫めるために切腹し、奉行は罷免されたといいます。彦八の没後、その石像が造られましたが、明...
広告
タイトルとURLをコピーしました