義民藤田民次郎顕彰之碑(藤田民次郎と民次郎一揆)
文化10年(1813)、弘前藩領の百姓2千人が城下に押しかけ、冷害による年貢減免を求め強訴しました。藩主・津軽寧親の英断により年貢の3年減免は認められたものの、首謀者として名乗り出た陸奥国津軽郡鬼沢村(今の青森県弘前市)の藤田民次郎が責任を負って斬首されました。この藤田民次郎を義民として顕彰するため、生誕の地には顕彰碑が建てられました。
義民伝承の内容と背景
寛政4年(1792)、ロシアの使節ラックスマンが通商を求めて日本に来航すると、幕府は地理的に近い弘前藩に蝦夷地警備を命じました。この時期、幕府の通商拒絶にいらだつロシア人の蝦夷地襲撃、いわゆる「文化露寇」が相次ぎ、警備のための出費で財政が逼迫した弘前藩は年貢の増徴で対応します。
このような中で、津軽地方では冷害による米の不作が深刻化し、ついに文化10年(1813)9月、百姓2,000人が弘前城亀甲門にまで押しかけて年貢減免などを求める強訴を行いました。
藩主・津軽寧親は、作柄の調査や蔵米の放出、3年間の年貢減免などを行い百姓の窮状を救おうとしましたが、一方において、強訴の際に郡奉行・工藤仁右衛門に願書を差し出した鬼沢村庄屋の子・藤田民次郎がすべての責任を負い、11月26日に取上の仕置場において22歳の若さで斬罪となります。
岩木山がそびえる故郷鬼沢村の龍味庵には民次郎の墓が造られたほか、生家のあった自得小学校校庭にも戦後「義民藤田民次郎出生之地碑」及び「義民藤田民次郎顕彰之碑」が建てられました。
また、一揆の際に民次郎が祈願をしたという氏神「鬼神社」がこの龍味庵の近くに鎮座しています。
参考文献
『義人藤田民次郎伝』(須藤水甫 弘前市立中央公民館、1963年)
義民藤田民次郎顕彰之碑の場所(地図)と交通アクセス
名称
義民藤田民次郎顕彰之碑
場所
青森県弘前市鬼沢字菖蒲沢109-4
備考
東北自動車道「大鰐弘前インターチェンジ」から車で30分。弘前市立自得小学校の校庭の一角、南側の公道沿いの場所に「義民藤田民次郎出生之地碑」及び「義民藤田民次郎顕彰之碑」が隣接して建てられている。