福田越の七人塚(丸山清右衛門と三次藩全藩一揆)

七人塚 義民の史跡
逮捕翌日に処刑された七人の頭取を祀る塚
この記事は約5分で読めます。
広告

享保3年(1718)正月、備後国(今の広島県)三次藩では、参加者5千人ともいわれる「三次藩全藩一揆」が起こりました。この一揆では郷代官制度の廃止などの成果が得られたものの、12月になると頭取の処罰がはじまり、恵蘇郡三河内みつがいち村では7人が逮捕翌日に獄門となっています。地元にはこの7人を埋葬したという「七人塚」が今も残ります。

広告

義民伝承の内容と背景

水害による税収減、江戸屋敷の再建や御手伝普請による出費拡大で財政難にあえぐ三次藩は、元禄12年(1699)に松波勘十郎を登用し、さまざまな藩政改革に当たらせました。しかし、この過程で鉄・紙の専売制や郷代官への有力農民の起用を進めて村方支配を強化したため、領民の大きな反発を招きました。

松波勘十郎は美濃国出身で、加納宿(今の岐阜県岐阜市)の松波家の養子に入って庄屋を継いだ後、各地を流浪して高岡藩、大多喜藩、大和郡山藩などの財政立直しを請け負いました。三次藩での改革は元禄15年(1702)に中止されますが、その後も郷代官制は維持されたほか、打ち続く旱魃と重税もあり、領民の不満が鬱積したであろうことがうかがえます。松波勘十郎自身は三次藩に続いて水戸藩の宝永改革に携わるものの、「勘十郎堀」と称される大運河の建設で領民を酷使したために「水戸藩宝永一揆」を引き起こし、その責を負って牢死しています。

このような状況の中、享保3年(1718)正月27日には、三次藩領の山之内組(今の広島県庄原市)の百姓千4、5百人ほどが山王宮近辺に集結したのを端緒に、『久光家旧記』に「御領内百姓町人高持ハ一人モ不残出テ」と記されるほどの、5千人規模の全藩一揆が巻き起こりました。一揆勢はまさかり、なた、長柄の鎌、鳶口、竹やりなど思い思いの道具を持ち、竹木を勝手に伐って三次町(今の広島県三次市)周辺に小屋掛けをし、篝火を焚いて泊まり込みをしながら、郷代官らの屋敷に押しかけ「家戸立具家財ヲ悉ク打クダク」ほどの打ちこわしを行ったといいます。

一揆勢からは減税やかつえ食の拝借、郡代・吉田孫兵衛や郷代官の罷免などの要求が出され、三次藩でも百姓らに無視された歩行かち横目の柳田所左衛門に代わって、勘定奉行筆頭目付役の望月番五(伴五)を交渉役に投入し、これらの要求を段階的に聞き届けることを約束したことから、2月6日には百姓らもそれぞれの在所に引き上げ、事態は沈静化しました。ただし、「此ノ春ノ三次領騒動前代未聞也」といわれた三次藩の全藩一揆が近隣に及ぼした影響は大きく、3月には「広島藩享保一揆」を引き起こしています。

この一揆後、郡代らが御役御免となったほか、特に郷代官については制度そのものが廃止されるなど、百姓側が大きな成果を収めたかに見えましたが、それだけでは終わらず、三次藩では12月に入ると唐突に頭取の逮捕と処罰をはじめました。

『久光家旧記』には次のようにあり、12月8日夜に代官ら6、7十人ほどが恵蘇郡三河内村(今の庄原市)を急襲し、目安箱に密告の投書があったことを理由に、何ら取調べをすることなく、翌9日朝には丸山清右衛門ら7人を処刑して獄門に懸けています。史料によって異なりますが、この7人の名は「小鍛次かじ八郎兵衛、紺屋八三郎、新屋七(郎)兵衛、丸山清右衛門、くにし(国石)九郎右衛門、古市場三郎兵衛、銀穴河内善三郎」であると伝えられ、その跡は闕所けっしょ(財産没収)、妻子は追放となりました。

十二月八日ノ夜、三次ヨリ大横目寺尾与三右衛門、代官沢田瀬兵衛其ノ外足軽取手六七十人三河内村へ来リ、春百姓騒動ノ発頭人目安書ナル由ニテ百姓七人誅罰シテ獄門ニカクル、皆々舌ヲマキヲソルル〔当春ノ百姓騒動ノ発頭ニハアラネ共、三河内村百姓吾ママニテ上ノ下知ヲ守ラズ。悪事重リテ此ノ如シ。〕
引用:『比和町誌』、p.350

『郷土夜話』によれば、7人は今の坊地池の近く(『鳳章君御伝記』には「しぶミ谷と申所ニ而死罪」とある)で処刑され、はじめに2人を斬り、命乞いを待ったものの、木屋原の庄屋が姿を見せなかったので、ついでに残り5人も斬首されてしまったとあります。そして、この庄屋の屋敷では正月松の内の間は5つの首が並んで恨み言をいうとの怪異譚も伝えています。

庄原市の比和町三河内地区には、今も「福田越の七人塚」と称する塚が残っています。一揆の頭取として死罪となった7人の遺骸は後難を恐れて親類縁者が誰も引き取らなかったので、庄屋の沼田某が持ち山に埋め、心ばかりの碑を建てて祀ったのがこの塚だということで、自然石の墓碑には何の銘も刻まれていません。

参考文献

『郷土夜話』(毛利元旦編 郷土史友の会、1967年)
『比和の自然と歴史』第2集(比和町史編集委員会編 比和町史編集委員会、1972年)
『広島県民俗資料』6(村岡浅夫編 ひろしま・みんぞくの会、1973年)
『三次地方史論集』(堀江文人 三次地方史研究会、1979年)
『比和町誌』(比和町誌編集委員会 比和町、1980年)
広島県双三郡・三次市史料総覧別巻『三次分家済美録』(広島県双三郡三次市史料総覧編修委員会編 広島県双三郡三次市史料総覧刊行会、1980年)
『広島県史』近世1(広島県編 広島県、1981年)
『松波勘十郎捜索』上(林基 平凡社、2007年)

広告

福田越の七人塚の場所(地図)と交通アクセス

名称

福田越の七人塚

場所

広島県庄原市比和町三河内

備考

「福田越の七人塚」は、庄原市比和地域市営バス「宇山」バス停前の市道を、東へ道なりに1キロメートルほど進んだ先の変形丁字路(X字路)を、さらに南西に100メートル進んだあたりに位置しています。道路沿いの擁壁上の墓地隣接地にありますが、擁壁上のため市道からはほとんど目視できず、案内板もありませんが、墓地の参道入口に石仏2体が祀られています。マイカーの場合、松江自動車道「高野インターチェンジ」又は中央自動車道「庄原インターチェンジ」から30分ほどです。

広告

関連する他の史跡の写真

坊地池坊地池

タイトルとURLをコピーしました