浮石義民墓所(藤井角右衛門と浮石義民事件)
宝永7年(1710)、凶作下で年貢の厳しい取立てを続けた長府藩筆頭家老の椙杜家に対抗し、長門国豊浦郡浮石村(今の山口県下関市)では給庄屋・藤井角右衛門を中心とする5人が幕府巡検使に年貢減免の直訴を行いました。訴願の趣旨は聞き届けられ、年貢は平年通り、椙杜家も減封となりましたが、5人の身柄は長府藩に引き渡され、松小田処刑場において斬首されました。この「浮石義民」の事績を顕彰するため、昭和に入ると地元に「義民碑」が建てられるなどしています。
義民伝承の内容と背景
江戸時代の宝永5年(1708)は全国的に天候不順で、前年には富士山の宝永噴火が起こり、東北地方では餓死者が続出したことが知られます。長府藩内でも旱魃による凶作となり、筆頭家老・椙杜元世の給地であった長門国豊浦郡浮石村の百姓らは年貢減免を嘆願しますが、にべもなく拒否されました。
そこで光安寺で村人たちの大集会が開かれたものの、すぐさま一揆を起こしかねない状況だったため、給庄屋・藤井角右衛門は一計を案じ、3分の1を現米納付、3分の1を借米の証文を書いて来年納付、残り3分の1を藤井家と妻の実家で造酒屋の橋本家が支払うことで難局を乗り切りました。
ところが翌年は豊作だったため、領主からは証文を渡して延納していた分に加え、年貢の2割増まで要求されてしまいます。百姓は椙杜家用人の安野十兵衛に嘆願するも認められず、宝永7年(1710)には年貢未進の取立ても厳しくなりました。
角右衛門は副庄屋の奥原九左衛門、畔頭の東与市右衛門・蕨野太郎左衛門・柳元寺豊吉(弟の六郎左衛門ともいう)とともに浮石八幡宮(今の亀尾山神社)の床下で密議を行い、百姓救済のため江戸に出て幕府に直訴することを決意します。
そこへ将軍代替わりに当たって正使の黒川与兵衛と副使の岩瀬吉左衛門・森川六左衛門の3人からなる幕府巡見使が長府藩を訪れるとの情報がもたらされ、5人は江戸出府を取り止めて、地元で巡検使を待って直訴することとしました。
7月9日、5人は幕府巡見使への直訴を豊田渡瀬に架かる土橋で行おうとするものの、角右衛門が暑さで倒れたために断念し、翌7月10日、内日(うつい)村(今の下関市)亀ヶ原の茶屋で巡見使が休憩している最中に直訴を決行し、岩瀬吉左衛門に訴状を渡すことに成功します。
直訴をした5人は捕縛され、長府藩に身柄が引き渡されたため、この一件は町奉行が処理することになりましたが、藩内の椙杜派と反椙杜派の対立により町奉行殺傷事件が起こるなど紆余曲折を経て、ようやく12月10日に判決が申し渡されました。
結果として訴願の趣旨は聞き届けられ、年貢は平年通り、借米分は免除、安野十兵衛は切腹、椙杜元世は閉門及び減知となりましたが、直訴をした5人も12月22日に長府松小田刑場において全員が斬首されました。
後に「浮石義民」と呼ばれる5人の遺体はその夜のうちに浮石村まで運ばれ、舜青寺墓地の奥に目立たぬように埋葬され、自然石を置いただけの粗末な墓が造られました。
昭和になると義民顕彰の機運も盛んになり、かつての浮石八幡宮に当たる亀尾山神社境内に彫刻家・北村西望の設計になる巨大な「義民碑」が建てられたほか、豊田・内日の両直訴地には「浮石義民直訴之地」の碑も建てられました。
参考文献
『浮石義民』(浮石義民顕彰会編 防長史料出版社、1982年)
浮石義民墓所の場所(地図)と交通アクセス
名称
浮石義民墓所
場所
山口県下関市豊田町大字浮石2583番地
備考
国道491号沿い「豊田西中学校前」バス停北の舜青寺境内、本堂右奥にある。