甚助神社(佐藤甚助と上到米村越訴)
正保2年(1645)、冷害に悩む出羽国雄勝郡上到米村(今の秋田県雄勝郡羽後町)の長百姓・佐藤甚助は肝煎とともに久保田藩主・佐竹義隆に直訴し、翌年に年貢減免が認められました。その後、甚助の事績を顕彰するため、大正時代に甚助を作神として祀る「甚助神社」が創建されました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代、出羽国雄勝郡上到米村は久保田藩の領地でしたが、六ツ物成(60パーセント)と年貢率がもともと高率であったことに加え、冷害のために凶作が続き、年貢の未進が何年も続いてしまいました。
そこで上到米村の肝煎・遠山治兵衛は、長百姓・佐藤甚助と相談して、年貢減免を求めて領主である出羽久保田藩主・佐竹義隆に直訴をし、村の窮状を救うことにしました。
2人は参勤交代の帰路を狙って雄勝峠で待ち伏せをするものの機会がなく、次の場所に移る途中で立ち寄った茶店の主人から、直訴が可能な場所は横手の馬喰橋しかないことや、青竹に訴状を挟んで「お願い奉る」と叫びながら駕籠の中に訴状を打ち込む作法があることを聞かされます。
茶屋の主人の指南を受けた治兵衛と甚助は、正保2年(1645)6月11日、馬喰橋のたもとにおいて、ついに参勤交代から国許に帰る藩主の駕籠に直訴状を投げ入れることに成功しました。
2人はただちに捕らえられて城下で入牢するものの、一方で藩からは御検視役が上到米村に派遣され、彼らの言い分が正しいかどうかが確認されることになりました。
検視役一行が上到米村に差し掛かったまさにそのとき、にわかに雷鳴が轟き、夏の土用にもかかわらず霰が降るのを目の当たりにしたことから、直訴の趣旨が真実と認められ、治兵衛と甚助の両名は釈放されるとともに、年貢についても翌年の3月に二免(20パーセント)が認められたと伝わっています。
その後時を経て、肝煎の遠山家は代々の屋敷や墓地が受け継がれたのに対して、身を捨てて村を救った百姓甚助の事績は忘れ去られて無縁仏も同然になってしまったことから、村では相談の上で大正7年(1918)に百姓甚助を作神として祀る「甚助神社」を創建し、甚助の墓石を納めてその霊を慰めることになりました。
参考文献
『羽後町の伝説』(羽後町教育委員会編 羽後町、1992年)
『増補改訂日本神名辞典』(神社新報社編著 神社新報社、2012年)
甚助神社の場所(地図)と交通アクセス
名称
甚助神社
場所
秋田県雄勝郡羽後町上到米地内
備考
湯沢横手道路「湯沢インターチェンジ」から車で30分、湯沢方面から北上してきた国道398号の交差点を左折して500メートルほど進んだ集落の片隅にある茅葺きの社殿です。国道沿いに「ここは唐松」と表示された道路標識があるので、この交差点を左折します。