昆野八郎右エ門神社(昆野八郎右衛門と釘子村越訴)

昆野八郎右エ門神社
仙台藩主に直訴した肝煎を神として祀る

2023年5月26日義民の史跡

天和2年(1682)、陸奥国磐井郡釘子村(今の岩手県一関市)の地肝煎・昆野八郎右衛門は、重税で疲弊する農民を救うため仙台藩主に直訴し、刑死したといわれています。その後、釘子村では年貢が軽減され穀納から金納に変わったといい、明治時代に義民として顕彰するため「昆野八郎右エ門神社」が建てられました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代のはじめ、陸奥国磐井郡釘子村は仙台藩の石川大和が治めていましたが、飢饉にもかかわらず贅沢に耽り、調達金や御借上げなどとして実質的な重税を課していました。

地肝煎の昆野八郎右衛門は農民の苦衷を見かね、不作による年貢減免を石川大和に嘆願しましたが聞き入れられず、ついに肝煎の職を辞し、身代を子女に譲り渡した上で、仙台東照宮参詣に出た仙台藩主・伊達綱村に直訴状を提出しようとしたところ、その場で警固の者に捕らえられてしまいます。

天和2年(1682)8月15日、昆野八郎右衛門は七北田の仕置場で処刑され、梟首されていた首は親族が請い受けて墓地に埋葬しますが、これ以降の釘子村では年貢が軽減され、穀納から銭納に改められたほか、石川大和もこの一件で角田に所替えとなったといわれています。

天保13年(1842)にようやく昆野八郎右衛門の屋敷跡に菰造りの祠が営まれ、やがて石祠に変わりましたが、義民として公に讃えられるのは明治時代に入ってからで、かつて代官の居館であった朝日館があったという大泉寺前の集落を見下ろす高台に「八郎明神」として祀られ、現在も「昆野八郎右エ門神社」として鎮座しています。

参考文献

『天和の義民昆野八郎右衛門伝-調査遍歴二十数年の記録-』(千葉幸右衛門 千葉幸右衛門、1991年)
『東磐井郡誌』(岩手県教育会東磐井郡部会 岩手県教育会、1925年)

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昆野八郎右エ門神社の場所(地図)と交通アクセス

名称

昆野八郎右エ門神社

場所

岩手県一関市室根町矢越地内

備考

三陸自動車道「気仙沼中央インターチェンジ」から車で30分。岩手県道18号本吉室根線の西100メートルほどの高台にありますが、県道沿いの入口に「大泉寺」と「昆野八郎右エ門神社」の入口を示す標柱が立っており、標柱の指す方向には「はちろうえもん」の植栽文字と長い石段の参道が見えます。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)