貞享義民社(多田加助と貞享騒動)

貞享義民社
松本城下を揺るがせた大一揆の頭取を神に祀る

2023年5月16日義民の史跡

貞享3年(1686)、信濃国安曇郡中萱村(今の長野県安曇野市)元庄屋・多田加助は年貢減免を求めて郡奉行に越訴しますが、これに追随して領内百姓1万人が松本城下に押し寄せる「貞享騒動」が起こります。松本藩は加助を含む多くの百姓を処刑して事態の収拾を図ったため、各地に供養塔が建てられたほか、加助を祀る「貞享義民社」も創祀されました。

義民伝承の内容と背景

貞享3年(1686)、信濃国では例年の不作が続く中、松本藩は籾1俵の年貢を従来の玄米3斗から3斗5升へと引き上げますが、これは高遠藩や諏訪藩など周辺諸藩の2斗5升と比べても相当な重税でした。

安曇郡中萱村の元の庄屋(代々の庄屋として彦三郎を名乗るも延宝9年に庄屋職召上げ)であった多田加助は、他の庄屋らと熊野神社で談合し、10月14日、「御情に御赦免被下候はば難有奉存候」と5か条にわたる訴状を郡奉行に提出して年貢の減免を訴えました。

ところが、これを知った他の百姓ら1万人も松本城下に押し寄せ、一部に商家を打ちこわすなどの狼藉を働く者があり、城下は騒然としました。この大規模な強訴のことを「貞享騒動」と呼んでいます。

参勤交代により藩主不在の中での対応を迫られた留守中の城代家老らは、いったん要求を受け入れる旨を証文に記して百姓に帰村を促しましたが、江戸在府中の藩主・水野忠直に急ぎ注進すると、先の約束を撤回し、首謀者として多田加助らを捕縛して厳罰に処することを決定します。

11月22日、松本城下の勢高刑場及び出川刑場において、一揆の頭取である多田加助をはじめ小穴善兵衛、小松作兵衛、川上半之助、丸山吉兵衛、塩原惣左衛門、三浦善七、橋爪善七のあわせて8名が磔、他の同志や事件に連座した子や弟など20人が獄門に処せられました。その際、善兵衛の子・しゅんのように、16歳の女性とみられる家族までもが連座により獄門となっています。

加助は勢高刑場で処刑されますが、見守る百姓らに向かって「2斗5升」と叫んだといい、後に松本藩でも年貢が3斗にまで引き下げられ、要求の一部は実現することになりました。

なお、勢高刑場の位置は長らく不明であったものの、戦後、松本城を見下ろす高台で市立丸の内中学校の建設工事をする際に、子供を含む18体の人骨(うち1体は一揆と無関係)が発掘されたことから特定され、現在は「義民塚」が営まれています。

享保10年(1725)、松本藩6代藩主・水野忠恒は、江戸城松の廊下で長府藩の毛利師就に対して刃傷沙汰に及んで改易、かわりに戸田松平家が鳥羽藩から松本藩に転封となり、世間ではこれを加助の怨霊の仕業によるものと噂しあいました。

享保20年(1735)には加助屋敷の片隅にその霊を祀る小祠が建立され、明治13年(1880)には「義民二百年祭」を契機として中萱村郷蔵跡に社殿の再建があり、このとき祟りを怖れた水野家が密かに供養していたという加助の木像が寄進されています。

明治時代には自由民権運動の中で加助の業績が顕彰され、半井桃水による小説『義民加助』が朝日新聞紙上に連載されるなどしており、昭和35年(1960)には「貞享義民社」の名で神社本庁に登録、隣接して「義民会館」、道路挟んで常設展示のある「貞享義民記念館」が建てられたほか、「多田加助屋敷跡」は長野県史跡の指定を受けています。

参考文献

『信濃の百姓一揆と義民伝承』(横山十四男 郷土出版社、1986年)
『松本市史』第二巻 歴史編II 近世(松本市編 松本市、1995年)
『徳川時代百姓一揆叢談』上冊(小野武夫 刀江書院、1927年)

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貞享義民社の場所(地図)と交通アクセス

名称

貞享義民社

場所

長野県安曇野市三郷明盛字宮ノ北3333番地の1

備考

長野自動車道「安曇野インターチェンジ」から車で10分。中萱駅から西に750メートルほど、長野県道314号田多井中萱豊科線沿いに鎮座し、周囲に多数の関連遺跡が存在する。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)