山陰百姓一揆供養塔(畝原覚之丞と山陰一揆)
元禄3年(1690)、郡代の苛政に耐えかねた日向国臼杵郡山陰村(今の宮崎県日向市)の百姓たちが延岡藩領から高鍋藩領へと逃散し、幕府裁定で多数が処罰されました。その一方で藩主・有馬清純も越後国(今の新潟県)糸魚川藩に転封となったことから、後に犠牲者のために供養塔などが建立されました。
義民伝承の内容と背景
元禄の頃、大風洪水による3年続きの凶作下で重税が課せられた日向国臼杵郡山陰村では、百姓が延岡藩に年貢減免を訴願するものの受け入れられませんでした。逆に郡代・梶田十郎左衞門と代官・大崎久左衞門らは年貢を厳しく取り立て、遅延の際は過科銀(とがぎん)を徴収すると脅したため、百姓は衣類や脇差などを質入れして納税するほどの有り様でした。
元禄3年(1690)9月、ついにほぼ村全体に当たる1,422人の百姓が牛馬や鉄砲などを持って逃散し、山道を進んで薩摩藩島津氏の領地を目指すものの、途中の股猪野(今の児湯郡都農町)で高鍋藩によって足止めされました。
彼らは高鍋藩から給米の提供を受け、ここに小屋掛けして滞在し、高鍋藩を介して延岡藩との交渉を行いますが、交渉は決裂して江戸の評定所で代官と百姓が直接対決する事態となります。延岡藩からは郡代と代官が、百姓側からも代表21人が江戸に呼び出され、高鍋藩の徒士・足軽らが付き添いました。
幕府裁定では百姓側の越度となり、頭取の百姓・善助と被官・市郎兵衛が延岡で磔、ほか山陰村で蟄居中だった藩士・林田半蔵が百姓を使嗾したとして死罪、百姓説得の命を受けながら神官らと領外に逃亡した被官・畝原覚之丞が遠島などと決まりましたが、残りの百姓は赦免されました。一方で年貢の厳しい取立てをした郡代と代官は公儀追放、延岡藩主・有馬清純も越後国糸魚川藩への転封を命じられ、山陰村は幕府領となり、多くの百姓が翌年帰村しました。
村では犠牲者のため盆の時期に「朝参供養」を行う習わしが生まれました。「朝参」とは人目を憚り早朝に菩提寺で供養したからとも、「逃散」が転訛したからともいわれます。また、山陰一揆から100年以上経過した文化8年(1811)には、当時の山陰村大庄屋・寺原和右衛門と成願寺8世住職・実門叟が21人の法名を刻んだ供養塔を成願寺境内に建立しています。
参考文献
『東郷村誌』(東郷村郷土誌編纂会編 東郷村郷土誌編纂会、1967年)
『宮崎縣百姓一揆史料』(小寺鉄之助編著 宮崎県史料編纂会、1956年)
山陰百姓一揆供養塔の場所(地図)と交通アクセス
名称
山陰百姓一揆供養塔
場所
宮崎県日向市東郷町山陰辛12番地1
備考
国道327号沿い、成願寺の山門右下に市の解説板とともに建つ。