杢右衛門の供養塔(因尾村杢右衛門と文化一揆)

一揆頭取の故郷に建てられた石地蔵

2023年5月17日義民の史跡

文化9年(1812)、重税に苦しむ豊後国海部郡因尾(いんび)村(今の大分県佐伯市)ほかの百姓4千人が、「願望拾ヶ条」を掲げ強訴に及ぶ「文化一揆」が勃発します。佐伯藩では家老・戸倉織部らを出張させて百姓側と交渉し、願いの趣旨を認めましたが、その後一揆の頭取として因尾村百姓の杢右衛門と文七を刎首獄門に処しました。杢右衛門の処刑後、その菩提を弔うため、一揆に参加した百姓らが資金を出し合い、戒名や俗名を刻んだ石仏が建てられました。

義民伝承の内容と背景

江戸時代の佐伯藩は毛利家2万石の領土でしたが、耕作に適した土地は少なく、「佐伯の殿様、浦でもつ」といわれるとおり、主に豊後灘に面した「浦」を拠点とする漁業と、山間部の林業・製紙業などによってその収入が支えられていました。

しかし、9代藩主の毛利高誠(たかのぶ)の頃には天災が相次いで山間部の農村を直撃し、百姓は借金をして年貢を支払う状況に陥っており、救荒用を名目に強制徴収される「助合銀」なども大きな負担となっていました。

折しも前年の文化8年(1811)、隣藩の岡藩で大規模な百姓一揆が勃発していたこともあり、文化9年(1812)正月11日の夜、重税に耐えかねた豊後国海部郡因尾村・横川村・赤木村・仁田原村・上直見村・下直見村・中野村の7か村(いずれも今の大分県佐伯市)の百姓4千人が横川村境の於流峠に集結し、鐘や法螺貝、鉄砲を打ち鳴らして気勢を上げ、藩に対して強訴に及びました。

一揆の指導者らは仁田原村(今の佐伯市)の正定寺で協議し、年貢軽減などを要求する「願望拾ヶ条」を取り決めた上で、大庄屋や御紙場役人、酒屋などを打ちこわし、切畑村(今の佐伯市)まで押し寄せました。謎の山伏・宝積院が百姓たちを扇動したともいわれています。

ここは番匠川を越えると佐伯城下という要衝の地に当たり、佐伯藩では郡奉行の斉藤勘左衛門・袋野孫右衛門や代官の天谷甚左衛門らを出張させて切畑村の洞明寺に本陣を構えました。そして、切畑村大庄屋の打ちこわしにやってきた百姓に向けて大筒を撃ち、百姓側に3人死亡、1人負傷の被害を出させて防戦しました。

やがて家老の戸倉織部が現地に到着すると、打ちこわしの最中に自ら百姓らのもとに出向き、その説得に当たるとともに食糧を提供しています。『党民流説』によれば、百姓らは最初は戸倉の説得を聞かず、「贋物ならん、かかれかかれ」と竹槍を突き出したため、戸倉は名乗りを上げ、陣羽織をはだけて胸を露わにしつつ「爰(ここ)をつけ」と迫ったため、百姓もその気迫に押されて平服したといいます。

戸倉織部は洞明寺で百姓らと交渉し、助合銀廃止を約束するとともに、他の要求は江戸に出府して藩主に言上するので100日待つようにと伝え、一揆はようやく沈静化しました。

その後は藩の取調べにより、因尾村の枝郷に当たる上津川の百姓・杢右衛門と、同じく因尾村堂ノ間の百姓・文七の両名が頭取として捕らえられ、引回しの上、番匠川原で刎首(はねくび)獄門となり、その他の百姓らも深島への遠島や所替・過料などの刑に処せられました。

一揆の頭取として処刑された杢右衛門の菩提を弔うため、百姓らは資金を出し合い、因尾村上津川に「寂照道光信士 孫吉 二十三歳 文化九年正月十三日」と刻んだ立派な地蔵菩薩の坐像を建てており、今なお地元に残されています。この石仏は実は佐伯藩が建立したものであるという伝承もあります。

また、文化一揆と関わりが深い正定寺では、同寺の創建500年を記念して、墨絵アーティスト・西元祐貴の手により「百姓一揆ふすま絵」が制作され、年に1度の大みそかの除夜の鐘に合わせて公開されています。

参考文献

『佐伯地方の先覚者たち』(古藤田太著 大分合同新聞社、1984年)
『大分県史』近世篇1(大分県総務部総務課編 大分県、1983年)
『徳川時代百姓一揆叢談』下冊(小野武夫編 刀江書院、1927年)

杢右衛門の供養塔の場所(地図)と交通アクセス

名称

杢右衛門の供養塔

場所

大分県佐伯市本匠大字上津川地内

備考

大分県道53号野津宇目線から東100メートルほどの位置にある。上津川の集落内に入り、民家の間のコンクリート舗装の通路を竹林内へと進む。

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このページの執筆者
村松 風洽(フリーライター)