若宮八幡宮(高橋安之丞と安之丞直訴事件)
江戸時代の貞享年間、土佐国吾川郡上八川村(今の高知県吾川郡いの町)で飢饉が起こり、里正(庄屋)の高橋安之丞が土佐藩に年貢減免を嘆願するものの、かえって彼を妬む者によって讒訴され、元禄元年(1688)に獄門に処せられました。人々は高橋安之丞の遺骸を鄭重に葬り、若宮神社を建てて五穀豊穣の神として祀りました。
義民伝承の内容と背景
江戸時代の貞享年間、土佐国吾川郡上八川村に飢饉が発生しました。新田開発や楮・茶の栽培を盛んにし、当時は里正(『吾北村史』では老(としより)職と推定)となっていた高橋安之丞は、土佐藩仕置役の岡部嘉右衛門に対して、年貢減免の嘆願を行いました。
しかし、高橋安之丞の活躍を妬む浪人・川橋三蔵が安之丞を讒訴したため役人に捕縛され、十分な取調べもないまま、元禄元年(1688)に高知城下の長芝で死罪となり、その首は雁切川原(今の紅葉橋付近)に晒されました。この処刑に関しては、首が自宅まで飛んでいった、岡部嘉右衛門ら関係者が次々と亡くなる不幸が起きた、などの祟りの伝説があります。
上八川村の人々は安之丞の遺骸を鄭重に葬り、首塚の傍らに若宮神社を建て、五穀豊穣の神として祀りました。若宮神社では今でも地元で祭礼が行われるほか、縁切りや訴訟の神としても信仰されています。明治時代に再建された社殿は、日本画家・河田小龍が手がけた「神攻皇后と武内宿禰」の絵馬や自由民権運動を表した「自由萬歳」の絵馬が残り、いの町の文化財指定も受けています。
異伝として、高橋安之丞が近隣百姓に土地を分け与えて耕作させていたところ、本来の安之丞の土地まで奪おうとしたため訴訟沙汰になり、敗訴により死罪になったともいわれます。文化年間に編纂された『南路志』にも、若宮の由来を「貞享年中田地出入ニ付死罪ニ被付祟をなし夫より祭来ル」と記し、田地を巡る訴訟と祟りに触れています。
また、高知市内には別の若宮神社もあり、これは土佐郡杓田村(今の高知市)百姓・清兵衛が高橋安之丞の胴体を願い受けて葬った場所に建てられたものといわれています。清兵衛は若い頃に病気の父のために薪売りなどをして生計を立てており、高知城下で父が好きな酒を買って帰る途中で徳利を落として途方に暮れていたところ、偶然出会った安之丞から酒や薬を援助してもらったため、その恩義を生涯忘れなかったということです。
参考文献
『安之丞八幡実記報徳義民録』(川村義澂 高知県吾川郡清水村青年団、1911年)
若宮八幡宮の場所(地図)と交通アクセス
名称
若宮八幡宮
場所
高知県吾川郡いの町上八川上分東深谷6296番地
備考
国道438号沿いに「義民・高橋安之丞若宮八幡宮」の看板があるので側道に入る。