坂東町次郎の墓(坂東町次郎と上郡一揆)
天保13年(1842)、重税や煙草栽培の統制への不満から、阿波国(今の徳島県)では山城谷の百姓逃散や加茂山周辺の打ちこわしが発生し、これが契機となって徳島藩領最大の「上郡一揆」へと発展します。徳島藩は百姓側の要求を認めるものの、一揆の先頭に立った坂東町次郎らは処刑され、各地に墓碑や供養仏などが建てられました。
義民伝承の内容と背景
山城谷一揆
天保12年12月(1842年1月)4日、徳島藩領阿波国三好郡山城谷(今の徳島県三好市)の困窮百姓631人が今治藩領伊予国宇摩郡上山村(今の愛媛県四国中央市)に逃散する「山城谷一揆」が起きました。
徳島藩領の畑作地域では、現物の年貢米の代わりに「指紙」を買って納付していましたが、指紙相場が高騰して生活が困難となったため、当初は郡代所への強訴を予定していました。
しかし、山城谷の組頭庄屋・深川弥五右衛門がこれを押しとどめ、徒党強訴は重罪になるので今治藩に縋るようにと諭したため、彼らも弥五右衛門の助言を受け容れて、国境を越えて逃散することになったものです。
上山村では彼らの苦衷に同情を寄せ、ひとまず村内の安楽寺に迎え入れた上で今治藩の三島陣屋に注進し、その後は今治藩主・松平勝道の計らいもあって、百姓側の処罰を伴わずに要求を認めさせて帰村することに成功します。
加茂山騒動
これに触発された三好郡加茂山(今の徳島県三好郡東みよし町)ほかの百姓は、天保13年(1842)1月6日夜、山を下り西庄村(今の東みよし町)鍛治屋敷に押し出しました。
総勢2千人ほどとなった一揆勢は、手に松明や鎌を持ち、鐘太鼓を打ち鳴らしながら組頭庄屋の川原五郎右衛門宅に押し掛け、土蔵や納屋に至るまで散々に打ちこわしました。
阿波の山間部では煙草が特産物でしたが、徳島藩は組頭庄屋を煙草裁判役に任命して運上を取り立てており、重税に喘ぐ零細農家の反感を買ったためです。
吉野川で行手を遮られた一揆勢は、口々に「辻町家々を不残打潰家筏を組川北へ乗付可申」と叫び、町家を打ちこわして得た材木で筏を組んで渡河すると脅したため、役人もついに制止することができず、川を渡り切るとなお他の組頭庄屋の打ちこわしを続けました。
大事と見た徳島藩は神社で休息する一揆勢のもとに郡代・三間勝蔵らを派遣し、郡代は百姓一同の願意を聞いてその場で書き取ったため、一揆勢も納得してここで解散を決めました。
重清騒動
しかし、この「加茂山騒動」を契機に領内で次々と一揆が誘発され、藩政史上最大という4、5千人規模の「上郡一揆」へと発展しました。
同年1月15日、美馬郡重清村(今の美馬市)の百姓8百人が鐘太鼓を打ち鳴らしながら庄屋・河野丈兵衛宅に殺到し、居宅や土蔵を打ちこわしました。
さらに淡路城代・稲田九郎兵衛の家臣である山方奉行・城松五郎宅にまで押し掛けますが、郡代・高木真蔵らの説得で未遂のまま解散しました。
川人騒動
1月16日(2月6日とも)には阿波郡大俣村(今の徳島県阿波市)に居住する諸士家来・坂東町次郎が同志とともに決起し、太刀を帯びて先頭に立つと、道すがら百姓を勧誘して回りました。
簑笠を着け手に松明を持った3百人ほどの一揆勢は、組頭庄屋・川人藤三郎の屋敷を打ちこわしましたが、当人はいち早く行方をくらませて難を逃れたといいます。
この騒動は郡奉行所に通報され、翌朝には早くも藩吏による捜索が行われ、発頭の町次郎らが捕らえられています。
祖谷山騒動
美馬郡祖谷山(今の三好市)では1月23日夜、名子百姓ら数千人が落合名の名主・喜多源五左衛門宅へ乱入して打ちこわしに及んだほか、6百人余りが国境を越えて土佐国に逃亡しました。
徳島藩は物頭・佐野万之丞らを出張させ取鎮めに当たるとともに、土佐藩と交渉して6百人の引渡しを受けています。
上郡一揆の結果
これら一連の「上郡一揆」により組頭庄屋の罷免など要求の一部は満たされましたが、頭取を務めた百姓らは悲惨な最期を遂げることとなりました。
「山城谷一揆」では処罰なしとの約束を藩が覆し、疱瘡のため獄中で病死した丞作に頭取の責任を負わせ、死首を切って塩漬けにしたものを山城谷まで運んで晒したといいます。
「加茂山騒動」では加茂山の重松・鹿次郎と桑原村(今の東みよし町)の六次郎が頭取として死罪を申し渡されますが、執行前に全員が牢死しました。嘉永2年(1849)には⻑善寺住職・宥壌が鍛冶屋敷に3人を供養するための地蔵尊を建立し、今なお「鍛冶屋敷の地蔵尊」として大切に祀られています。
「重清騒動」では百姓・森蔵が頭取と決まり鮎喰河原にて死刑、首は居村で獄門とされました。森蔵は死に臨んで自分を神として祀れば作物を虫害から守ると言い残し、吉水の丘に祠が建てられました。
「川人騒動」の坂東町次郎も鮎喰河原で斬首の上、阿波郡伊沢村(今の阿波市)で獄門に懸けられましたが、落ち着き払った態度で「振り上ぐる刀の下は地獄なり我が行く先は弥陀の浄土ぞ」の辞世を詠んで人々を感嘆させ、死後も獄門首の前に多数の参詣人が押し掛け賽銭や香華を手向けたといいます。地元には町次郎の宝篋印塔形式の墓が残ります。
「祖谷山騒動」では国五郎・武右衛門・円之助が鮎喰河原で死罪の上、国境の京柱峠に首を晒されましたが、国五郎を除き執行前の牢死と伝わっています。⼩川阿弥陀堂境内の武右衛門の墓をはじめ、それぞれの地元には供養のための石仏が祀られています。
参考文献
『徳島県史』第3巻(徳島県史編さん委員会編 徳島県、1965年)
『三加茂町史 復刻版』(三加茂町史編集委員会編 三加茂町、2006年)
『阿波町史』(阿波町史編纂委員会編 阿波町、1979年)
『東祖谷山村誌』(徳島県三好郡東祖谷山村誌編集委員会編 東祖谷山村誌編集委員会、1978年)
『三好郡志』(徳島県三好郡編 徳島県三好郡、1924年)
坂東町次郎の墓の場所(地図)と交通アクセス
名称
坂東町次郎の墓
場所
徳島県阿波市市場町大俣地内
備考
徳島自動車道に並行する市道を進み、手打ちうどん大福の角を曲がって南に20メートル入る。